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游「白旗神社元旦祭」 [「游」シリーズ (2012)]

  游「白旗神社元旦祭」
         
                      
 
平成24年1月1日(日)
                               
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  • 日記でもない、随筆でもない。その日のことでもよいし、昨日のことでもよい。書きたいと思ったことを書き、書くことがなければしばらく放っておくのもよい。

    ブログを始めたのが「ボケ防止」であったし、書くことで「新天地」が拓けた。しかし、去年の年の瀬に「書くのが嫌になったのでしばらく休筆する」と宣言した。すると、ニューヨークに住んでいる方から「ブログをつづけてほしい」と長いメールが届いた。多くの人に読んでもらえることも嬉しいが、少ない人でも楽しみに待っていてくれる人がいるということは励みとなる。

    今回の連載のタイトルに「游」の文字を冠したことに意味はない。ただ俗字の「遊」ではなく、本字の「游」を使ったところは「遊びにも拘りがある」と言いたいだけである。さて、1月元旦からはどんな「游」がころがっているかが楽しみである。

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    12月31日午後2時、元旦祭準備のために白旗神社に向かった。

             
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    すでに多くの人たちが例祭の準備に取り掛かっていた。神社の境内のそこかしこに、いくつものテントが張られている。初詣の善男善女の暖のために大焚き火の準備が進んでいた。午前零時に繰り出す万灯神輿の飾り付けの声々もする。巫女さんや宮司が忙しく立ち働いている。達磨を売る屋台ももう準備が完了したらしい。

    神前は掃き清められて神様の降臨を待つばかりである。テントの中には紅白餅や御神酒が運び込まれている。本殿前の階段には灯りがともされて静かに卯年が遠のいてゆく、そうだ来年は12年ぶりの辰年である。私も、6回目の年男である。いつもは気にしたこともないことだが、まさか自分が72歳まで生かされるとは思ってもいなかったので、珍しく感慨深い。

    元旦祭の準備がほぼ終了したのを見極めて、一端家に戻り休憩してから、午後11時には再び白旗神社に参じた。既に、御輿殿の前には万灯神輿が出御の時間を待っていた。

        
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    やがて氏子総代会長から声がかかると、手水に身を清めた宮司、神社役員、氏子総代、牛若会や神社の頭が元旦祭式場に昇殿する。

    不思議なことに、ここでは新しき年を迎えるという感慨は失せていた。

        
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    一同は午前零時を静かに待っていた。やがて宮司によって太鼓が打ち鳴らされて新しき年が告げられた。

    宮司の新年を寿ぐ祝詞が奏上され、玉串が捧げられて元旦祭を終えた。

    いつもなら、ここで直会の御神酒が振舞われたはずなのに、なぜか今年は省略されている。これとても私の勘違いであったろうかと自信もない。氏子総代も2年目になると、慣れた気分で肝心なことを忘却している。古いことは記憶にあるが、1年前とか1週間前のこととなると思い出せないことが多いのである。

    私たち氏子総代はそのまま御神酒進上のご奉仕に向かった。それを待つかのように万灯神輿が、寒気を切り裂くようにワッショイと境内に繰り出した。

    神社本殿で初詣を済ませた善男善女が、紅白餅を手にして裏階段を下り御輿殿にお参りして、社務所でお札や破魔矢を受けてから、私たちの御神酒所前にやってくる。御神酒進上場前は、たちまちの人だかりで目出度いことである。

    御輿殿の前にも初詣客が4列に並んでいる。果たしてどこまでつづいているのかの確認すら出来ない。山梨の田舎で育った私は、村の小さな鎮守にお参りはするものの、ご近所の人たちとしか顔を合せることがなかったものだから、この人出にはいささか驚いていた。

        
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    午前3時も近くなると流石の賑わいもなくなった。私たちの御神酒進上もそろそろ閉店のお時間である。

        
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    ようやくここで、私たち氏子総代も直会の御神酒と紅白餅をいただいて家路に着いた。少なくなったとはいえ、おそらく明け方まで、いや三が日の初詣客は絶えないことであろう。

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    「白旗神社公式HP」には、

    白旗神社がいつごろできたのかは定かではありませんが、鎌倉時代より以前から、相模国(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同じ名前の寒川神社と呼ばれていました。
    文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰められ、奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害されました。その首は奥州から新田冠者高平(にったかじゃたかひら)という者によって鎌倉に送られました。高平が、腰越の宿(鎌倉市)に到着すると、そこで和田義盛・梶原景時によって義経かどうか確認されました。伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれています。
    このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示しました。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と呼ばれるようになりました。弁慶の首は、白旗神社のそばに八王子社として祀られることになりました。

        
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    (註)この記事は、まだ書きかけのものです。

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