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そうだ京都に行こう 【1】 [そうだ京都に行こう]

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  そうだ京都に行こう 
         
(その1 高瀬川まで)

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  •  突然娘が「京都に行こう」と言い出したのです。

     この梅雨の時期に旅行でもあるまいと妻と笑っていました。ところが娘は、いつもの通り勝手に旅行準備に突入しているようです。
     数日して、パソコンの旅行案内をプリントして、「こんなに割安で、しかもお父さんみたいな気ままな散策を楽しみたい人には、打ってつけの企画があるのよ。奈良がいい、それとも京都」と少しずつ私を蟻地獄に誘い込むのです。

     私も、その誘惑に落ちてもいいという気分になっていましたが、「お母さんと行ってきたら」と拗ねてみるのです。

     私の住む藤沢からは新横浜駅が最寄駅ですが、娘は「品川駅発7時20分発のひかりで行く」というのです。
     「この時間帯は、品川駅始発しかないんです」と、当たり前だといわんばかりの娘の態度に、わざと不満げな顔をしてみせるのです。

     しかし、我が家から新横浜駅は距離的には近いといっても、何回も乗換えなくてはならず、けっこう時間もかかるのです。ですから乗り換えなしで空いている時間帯なら座ったままで、40分も我慢すればよい品川駅からの乗車は比較的便利なコースなのです。

     品川駅に着く(7月2日)と、もう娘のツアーコンダクター癖が露出しはじめました。朝食用の弁当を買おうとする私に、「お父さん、ここには美味しい手作りおにぎりの店があるんです」と制するのです。
     また、はじまったかと不機嫌な顔をしながらも、「しめしめ、この旅行も娘まかせにしよう」と心の中ではほくそ笑んでいたのです。さらに嫌味で、「おにぎり屋は7時開店と書いてある。発車時間ぎりぎりだぞ」と言ってみるのです。

     3種類のおにぎりをほお張り、少しまどろんでいるともう京都に着いた。早速観光案内所を訪れて、京都御所管理事務所の電話番号をメモしました。
     さて今日はどこを回ろうかと、あてのない旅好きの私は浮き浮きしていました。すると娘が、「伊勢丹の開店時間まで、あと10分ですよ」と急いでデパートの入口に並ぶのです。

     これはまた何か魂胆があるのだぞと娘の顔をみるが、横を向いて知らんぷりなのです。

     どうも私は、あのデパートの店員の慇懃無礼な最敬礼が嫌いなのです。ですから、なるべく店員を見ないようにして、娘につづいて急いで入口のドアーをすり抜けたのです。

     客の流れにのって、まるで天まで上るような京都伊勢丹のエスカレーターを、どこまでもどこまでも上って行くのです。娘は、かつて知ったるがごとき道筋をすたすたと進み、男性用品の売り場を突っ切って、真直ぐに洒落た京風の甘味処「茶寮 都路里」に入ってゆくのです。

     私たち一番目の客につづいて、次々に入るお客さんたちをみて、京都の人は朝から甘いものを食うのかと驚きました。
     しかし、よくよくみると京都の人ばかりではないようだと、驚いたり感心したりしているうちに、娘は「この前、お母さんと来たときは、すごい行列で入れなかったのよ」ともうお品書きに見入っています。

     そうか、これが「京都食べ歩き」のはじまりなのかと思いながら、そんなら今回は徹底的に娘の計画を邪魔してやろうと思っているのでした。
     
     数日前からの天気予報では京都は雨でした。私たちは京都タワー前の交差点を東の方向に道をとり、表通りよりも裏通りを歩きたいと左折して東洞院通りに入り、観光客のいない小路の散策を楽しみました。
     そしてすぐに右折して高倉通りを左折すると七条通りに出ました。そのまま、その七条通りを突っ切りながら「渉成園は、この先です」と娘がいうのです。

     そうか次の目的地は渉成園かと、なかなかいい処に目をつけたなと思いながら、そのまま北に200mほど進みます。
     すると古く格式のある大きな門の前に出ました。門前には古びた柵があり門は閉ざされ、ここしばらくは開けたようすもみえないのです。

     よく見ると小さい表札には「渉成園」とみえます。私は「きょうは休園みたいだよ」と言うと、間髪を入れずに「入口は左の角を曲がって北の方みたい」とさっさと歩き出したのです。

     門をくぐり、500円の維持協力費を払うと立派なパンフレットをくださった。今朝まで降っていた雨で蒸し暑くはあるものの、庭の緑はいっそう鮮やかでした。ほとんど観光客のいない庭園を、久しぶりに娘と散策できることを楽しんでいました。

     娘と案内札に導かれて卯月池から侵雪橋・縮遠亭を望みます。池には白い蓮が群生して清らかで美しい。菖蒲の数本しか残り咲きのないのが、京都の名園を清浄なものにしています。

     建物(御殿・茶室)は2度の火災にあって焼失したというが、池水と石組みは石川丈山が作庭したものが、そのまま残されているらしいのです。
     ぐるりと一周した庭園内の屋敷の玄関には、「大谷」と書かれた表札がありました。なにげなく娘に「もしかすると、ここは本願寺につながる庭園かもしれないネ」と話しながら、庭園出口まで戻ってきました。

     すると娘が、「この棘のある植物は、なんていうのかしら」というのです。
     見たことのある植物ですが、どうしても思い出せない。私はとっさに言葉に窮して適当な植物名をもごもご言いかけますと、それが聞こえないふりをして、「あら、ここにからたち(枳殻)と書いてあるわ」と案内板の説明を読み上げているのです。

     私たちはもと来た道には戻らず、庭園からそのまま北に向かい庭園がつきたところの角をさらに右に回り、庭園を半周して大きな築地塀をめぐらした道をたどりました。

     娘は、「大きなお屋敷きだっのね。嵯峨天皇の皇子の源融の六条河原院苑池の遺跡だっていうけど、なるほどと思うわ」と話しています。
     なにげなく見上げている長い築地塀の瓦はずうっと巴の紋でした。ところが、この河原町通りに差し掛かる辺りからは、本願寺名の入った瓦に変わっていたのです。

     園内の「大谷」名の表札といい、この「本願寺」の名入り瓦といい、このまま見過ごすわけにはいかなくなりました。

     後になって「渉成園」について調べてみますと、「真宗大谷派の本山の飛び地境内であって、周囲に枳殻(からたち)を植えていたので、当初は「枳殻邸」と称されたが、石川丈山が作庭したころからは「渉成園」と呼ばれるようになった」との解説をみつけました。

     今回は名所旧跡を訪ねる旅ではありませんが、気になったことは捨てて置けないのが私の悪い癖なのです。

     私たちは、その河原町通りを突っ切り狭い町屋の軒下を、あの森鴎外の小説の舞台となった「高瀬川」のほとりに出ました。

       
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     当初、この文章は「つれづれの記」として書きはじめました。

     でも書いている内に、どこかで違和感を感じていました。娘を通しての自分が、自分の行動を通しての娘の気持ちみたいなものが、そこかしこに顔を出しはじめたからです。

     もしも作家や詩人ならば、それぞれの人物の動きを通して、その心情や信条までが描かれることでしょう。でも悲しいことに、私にはあったことの事実さえも正確には表現することができないのです。

     どうぞ、この悲しみの分かる方だけお読みください。

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