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遊行上戸  [つれづれの記]


  遊行上戸

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  • 遊 行 寺

     酔えば外をさまよって歩く癖のある人を「遊行上戸」というのだそうです。

     それは私の現在の生活でもあり理想でもあるのです。その語源となった通称遊行寺(時宗総本山・藤沢山無量光院清浄光寺)は、我が家から歩いて7分のところにあります。この一遍上人ゆかりの地を終の住処として3年あまりになりますが、寺の年中行事だけではなく、気が向けばふらりと訪れてぼんやりできる心の故郷になっています。
     子どもがいます、老人もいます、犬も猫もいます、大銀杏には鳥も鳴きます、茶会のご婦人に私の愛犬が小さな尻尾をゆらしています。
     
     時には、その愛犬の案内で本堂裏の長生院を尋ねることもあります。ここも通称小栗堂といわれています。この寺の庇の下を通って更に裏に廻るころになると、いつの間にか愛犬は私の後ろについているのです。ところで「小栗判官照手姫」の物語は、江戸時代から歌舞伎や演劇などで有名ですが、これは中世の説教節など語りの芸に端を発したものと伝えられています。
     
     あら不思議やな、その伝説の小栗判官と照手姫の墓があるのです。ご丁寧にも家来や名馬鬼鹿毛の墓までがあるのです。私はなぜか嬉しくなって、通りがかりの古老に声をかけます。いつも参詣人に問われているのだろうか、その好々爺は「それはなぁー、物語のストーリーの主要部分に藤沢の上人が登場するもんだから、江戸の昔から藤沢ゆかりの物語として親しまれているんだよ」と少し酒焼けした顔をピクピクさせながらお話しくださるのです。
     
     そのころになると、少し冷たくなってきた風に後押しされながら暮れなずむ家路を急ぐのです。
         
      遊行寺の秋(藤沢市西冨)
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  • 瑞 泉 寺

     この数年で鎌倉の寺はほとんど拝観したように思うのですが、何度訪ねても記憶していないのです。惚けたと思うでしょうが惚けようとしているのです。その方がいつも新鮮な気持ちで仏様に面会できるからです。それはたまに田舎に帰った時などに、もう忘れていたはずの近所の爺さんがヒョコッと顔を出して、「よく来たな」と言われたことによく似ているのです。
     
     ところで私の故郷・甲斐の国から出て、短歌の山頭火と称されたのは「山崎方代」です。その方代は、この近くの鎌倉の手広にも住んでいました。私が勝手に鎌倉の奥座敷と名づけた二階堂に古刹瑞泉寺がありまして、境内には著名な歌人の碑がいくつかあります。そしていつのころからか、

       
    手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る

    という素朴な歌が気になってしかたがなかったのです。その歌碑の作者が方代だったのです。気になって歌集をあちこち探したのですが完売なのです。当時10、000円もする歌集が売り切れる人気だったのです。それでも諦め切れずに探していることを知った古い友人が、八方手を尽くして何とか手に入れて、私にプレゼントしてくれるまでにすでに数年が経過していました。
     
     その方代は山梨県右左口村の農家の生まれで、8人兄妹の末っ子だったそうです。兄姉の5人が早世したものですから、父は彼に「生き放題、死に放題」とのことから「方代」と名づけたというエピソードは凄い。
     その方代は南方の戦地で、砲弾の破片により右目の視力を失いました。戦後は放浪生活を続けていましたが、その彼を歌人であり師でもあった吉野秀雄は「中途半端な男じゃない」と評したそうです。その瑞泉寺の歌碑は「師の吉野秀雄より大きいのは失礼」とやや小ぶりに建てたところに、方代の方代らしさがあるのです。
     
     昨年私の母は91歳で亡くなりました。その会葬礼状に「一日でも浮世にながくとどまりて父母を偲んで泣いてやりたい」という一首を引用させてもらいました。むつかしきことを難しく言うのはまだ許せるが、やさしいことを殊更に難しくいう人は嫌いだ。だから父・母・酒・孤独・故郷などを口語的発想と庶民的な言葉で詠う方代が好きです。

     そんな取り留めもないことを考えながら鎌倉宮まで戻って来ると、やはり方代の歌で「母の名は山崎けさのと申します日の暮れ方の今日の思いよ」の一首が口をついて出てきたのです。

      山崎方代歌碑(鎌倉市瑞泉寺)
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  • 片瀬海岸

     今日は天気がいいので、自転車で片瀬海岸に出てみる。

     小田急片瀬江ノ島駅を右に見て、片瀬橋を渡るころには、江の島弁天橋の向こうに緑の江の島がくっきりと浮かんで見えます。自転車を跨いだままで、私の思いは過ぎ去った50数年前に遡っているのです。

     戦後の食糧難では、米を持参しなければ旅館に泊めてはくれなかった。あの夜私の母は、修学旅行(小学校6年生)に持ってゆく米代を稼ぐために徹夜で裁縫をしていた。翌朝母はいなかったが、枕元に5合の米が置いてあった。あれほど楽しみだった修学旅行への期待などはどこかに消し飛んで、胸が塞がれるような思いで母が用意してくれた米を木綿袋に移し変えた。そしてのろのろと古びた兄からのお下がりのリュックサックに、その木綿袋を詰め込んだ。
     
     かつて江の島弁天橋を渡り終えた右手に「二見館」という古い旅館があった。3つ上の兄も、そして3つ下の弟も、親元を離れてはじめて泊まった旅館でした。時の移ろいは無惨です。その私たちにとっては懐かしい二見館を、豪華な鮨屋とモダンなスパへと変えてしまったのです。
     
     私たちの修学旅行は、鎌倉の建長寺から円覚寺へと参拝して、長谷の大仏を経て海に出ました。旅行の前に先生から教えてもらった、「七里が浜の磯づたい 稲村ヶ崎名将の・・・」と大声で歌いながら今晩の宿泊地二見館に到着しました。
     
     その当時でももう珍しくなった国民服の仕立て直しの服を着た担任の指示で、大広間の中央に3ヵ所ほど設えてある木箱に持参の米を流し込んだ。たちまち盛り上がってゆく米の山は、貧乏人の米も金持ちの米も混ざり合ってもう区別がつかないのです。ただ母の徹夜の米が、金持ちの米と一緒になることにはどうにも我慢がならなかった。
     
     部屋に戻ると仲良しのA君が黙って海を見ていた。A君は何も言わなかったし、私も何にも聞かなかった。夕食の時にA君は私の顔を遠慮がちに見ていたが、私は知らぬ顔をすることがせめてもの友情だと思っていた。「同じ貧乏でも、まだ違いがあるんだ」と悲しかったのです。
     それでもあのころは、戦争が憎いなどとは思っていなかった。ただいつも腹が空いていたので貧乏は嫌いだった。そんなどうしようもない暮しの中で、「父が戦死(中部太平洋方面)してくれたから貧乏にも我慢ができるんだ」と、生意気にも屈折した心を日々膨らましていったことも悲しかった。
     
     どのくらい時が過ぎたのだろうか。道の真ん中で自転車に跨ったまま動かぬ男を、不審そうに覗き込む観光客の目を私はようやく気づかされた。
     道からはみ出しそうになった観光客の流れを避けるようにして、江の島水族館の脇を片瀬西浜海岸に出る。少し風が出てきたのかいつもとは異なり、今日は白波がサーファーを弄んでいる。夕日を見に来たのだろう、若いカップルが海岸線の幅広いゆったりしたコンクリの階段に腰掛けはじめる。
     
     さていよいよ片瀬海岸の夕日ショーの開幕です。春を待つ陽光が雲を赤く染め白波を紅に染めるころともなると、サーファーや釣り船や烏帽子岩を影絵に変えます。
     まだ明るさ残した伊豆の連山や箱根の明神・明星・金時の山、信仰の大山の山並みが美しい。その山々に守られて、白雪を夕陽が紅に染めてゆく霊峰富士の雄姿が眩しいのです。ビーチバレーの女学生たちは後片づけに忙しいが、大きなリュックサックを背負った外国人は荘厳な仏像のごとく立ち尽くしている。等間隔に陣取ったカップルは恍惚としてやはり動かないのです。
     
     日没と同時に急に寒さが増してきたので、ゆっくりと海岸線をたどり鵠沼方面に廻ります。いつもなら引地川河口の鵠沼橋のほとりにある「聶耳記念碑」を横に見ながら家路に着くのです。
     今日はなぜか自転車を降りて、100坪ほどの聶耳記念公園のベンチに腰掛ける。黄昏に記念碑の傍らにある銅版の文字は定かではないが、おおよそ「昭和10年、中国の青年が鵠沼海岸で泳いでいて行方が分からなくなった。翌朝発見され藤沢市内で荼毘にふされた。戦後の昭和24年新中国が誕生して国歌が制定された。その国歌の作曲者が聶耳であった」と書いてあったと記憶している。
     
     恥ずかしいことだが、ほんの2ヵ月前までは「聶耳」をニエ・アルと読むことも知らなかった。まして、「義勇軍行進曲」(映画「風雲児女」の主題歌)の作曲者である聶耳が、この鵠沼海岸で亡くなった時期に映画が封切られ、中国全土で、この曲が歌われていたということなど知るよしもなかった。
     私はブルッと身震いした。それは雨水が過ぎたとはいえ、まだ冷える如月の夜の闇を恐れたからでもない。
     
     すでに辺りはとっぷりと暮れて、夜のしじまに潮騒だけが聞こえていました。

      片瀬橋からの江の島 (平成20年1月4日撮影)
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     鵠沼海岸からの富士
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     聶耳記念公園 
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     聶耳記念碑の由来
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