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紅葉狩り1 【京都光悦寺】 [紅葉狩り]

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  紅葉狩り1
 
(京都光悦寺)

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  •  鷹峰の光悦寺のモミジは、ほどよく色づきはじめていました。 

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     12時30分に京都駅に着きました。紅葉の季節だというのに平日の今日(11月15日)は、思ったよりも観光客が少ないのです。
     駅前で車に乗り込むと妻は、「すみません光悦寺まで行ってください」と行き先を告げています。今回の紅葉狩りは妻の企画ですから、私は気楽に見ることだけに徹しようと思っています。
     
     娘と京都の裏町をぶらぶら散歩したのは6月でしたから、もう半年も前のことになります。その烏丸通りから1本西側に入った堀川通りを車は北に向かって走ります。
     まだ修理中の西本願寺前の欅の葉は干乾びて茶色く変色し、少しの風でもカラカラと音がしそうで、見た目にも美しくはありません。

     左手前方に二条城が見えてきましたので、「この道の右方向に烏丸通りがあるんだ。僕は六角堂、娘は烏丸界隈を歩き回ったんだよ」と妻に話しはじめましたが、あまり興味がなさそうな顔をして車窓からの景色を見ています。
     
     これは興味がなさそうと書いたのは間違いで、雑音と同じ周波数だ言われたこともある私の悪声が、妻にはよく聞き取れなかったのかも知れません。
     まだ耳が遠くなるほどの年齢ではありませんが、最近の私たちは2人揃って耳が聞えづらくなっているのです。

     ですから2人して、とんでもない頓珍漢なことを言い合って大笑いすることもありますが、時には聞き取れないことが原因となって口論にまで発展してしまうことだってあるのです。

     二条城の次の交差点を左折して、今度は千本丸太町の大極殿跡前を右に曲がります。この道を道なりに進むと光悦寺に向かいます。
     しかし、さすがは地元の運転手さんです。仏教大学あたりを過ぎたところで車が渋滞したとみるや細い路地道に入り、しょうざん光悦芸術村(本阿弥光悦は、この鷹峯あたりに芸術村を作り、本阿弥一族や町衆・職人など、法華宗徒仲間を率いて移住したのだそうです)の前を通り過ぎて、あっという間に光悦寺に着きました。

     今朝のテレビでは、「神護寺と嵐山の紅葉が、ようやく見ごろになりました」と話していましたが、さすが洛北の鷹峰にある光悦寺では、垣根は青々としているのにその奥のいろはモミジは色づきはじめているようです。
     垣根の中からも、ワァーきれいと感嘆する女性の声が聞こえてきます。
     
     境内に入りますと、狭い道を覆いつくすようにイロハ紅葉が垂れ下がっています。草葺の釣鐘堂が建っていますから、寺だとわかります。
     もしここが光悦寺であると知らされないで入ったとしたら、大きなお屋敷に案内されたか、それとも料亭の庭に迷い込んだのかとまごうばかりの風情なのです。

     この寺は徳川家康から拝領した野屋敷を、本阿弥光悦の没後に日蓮宗光悦寺としたものだそうですが、王朝文化を尊重し朝廷とも深いつながりがあった光悦を、都から遠ざけようした家康の意思が働いたものだとの説もあります。
     仮にその説が正しかったとしても、家康が光悦を鷹峰に閉じ込めたからこそ、このようなさまざまな卓越した芸術の新様式が、この地から生まれることになったという、その歴史の皮肉を見たような気がしたのです。
     
     運転士さんの解説は妻に任せて、私はカメラを片手に茶室や光悦垣(臥牛)などを覗き込みます。
     それにしても京都の運転手さんは親切でありまして、寺の中まで一緒に入り込み面白おかしく案内してくださるのです。
     でもよくよく見ていますと、運転士さんは拝観料を払ってはいないようです。そうかこれは既にお寺さんとの協定が成立しているのだと思ったことでした。

     庭内の光悦堂(収蔵庫)には、光悦の木像などの遺品が残されています。
     この遺品展示を見ていますと、刀剣の鑑定・研磨・浄拭を家業とする本阿弥家に生まれた光悦が、寛永の三筆の一人として数えられ、書家・陶芸・漆芸・出版・茶の湯などの多方面に優れた芸術能力を発揮したプロセスがよくわかります。
     やがてその活動が、禁裏をはじめとして諸大名の御用を承るまでに発展していったというのです。

     庭は本堂前からゆるい下りになっています。先ず右手に茶室「大虚庵」が見えて来ますが、これは光悦が晩年を過ごし、終焉を迎えたところだそうです。
     その庵の垣根は「光悦垣」、またはその姿から「ねうし垣」とも呼ばれています。
     現在の大虚庵は大正4年(1915年)の再建でありまして、他にも三巴亭・了寂軒・徳友庵・本阿弥庵・騎牛庵などの7つの茶室が散在しています。
     
     今日は薄曇りのせいか、京都市内は靄っていてよくは見えませんが、目を上に転じますと丸みのある女性的な山が借景として庭に取り込まれています。
     もしかするとあれが鷹峰三山(鷹ヶ峯・鷲ヶ峰・天ヶ峰)なのであろうかと想像しながら、やがて全山が綾錦になった美しさを思い浮かべてみるのです。

     この庭の一番下に位置する本阿弥庵を背にして、もう一度生け垣越しに京の街を見下ろしました。すると目の前が開けて、生け垣と同じ高さに一抱えもあるコナラの切り株2本が見えました。

     よくよく見るとその下の方にも、さらに大きい切り株が見えています。それは虫食いで伐採したとも思われないのです。
     そうかこの木も大きくなり過ぎて切られたのかと独り言を呟いています。すると脇に立っていた運転士さんが、この庭の隣の林の中で日影を作っているコナラの大木を指さすのです。

     近づく冬の陽射しが生け垣の山茶花の白さを一層際立てています。珍しいことに妻は、「この山茶花を、画面いっぱいに撮っておいて」と注文を出すのです。
     
     ※ この記事と関連のある「写真1 京都光悦寺」を参照ください。 
     



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