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江の島道 【6】  [江の島道]


  江の島道
      -わが街「江の島道」が見えてきたー  (NO6)

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  • 浮 世 絵 
     ここで「浮世絵」を取り上げたことには少し訳がある。
     それは藤沢市文書館に保管してある「江の島浮世絵」(写真集)と「江の島浮世絵展」のパンフレットを偶然手にしたことにある。これは藤沢市が、市制40周年を記念して購入した江の島浮世絵の88点を公開展示したときのものである。

     もう一つの理由は、これまで私たちは、わが街「江の島道」研究のための枝折として、「大山と江の島道が庶民の信仰の地・遊興地として盛んになっていった経緯」について述べてきた。
     しかし、ここで「浮世絵」を材料にして考察してみることで、また違った視点からの、わが街「江の島道」がみえてくるのではないかと期待したからであった。
     
     鎌倉の頼朝が、藤原氏調伏のために戦勝祈願をしたことをはじめとして、江の島は、いつの時代にも武家の祈願所としての地位を獲得していた。
     それゆえ幕府(徳川家)が、この江の島を祈祷所に指定したことについても特別な不思議はない。

     だが、それまでの武家の取った江の島統治と、幕府のそれとには違いがあった。それは幕府が江戸庶民に自由な参拝を許したことである。
     残念ながら、その理由について詳しく説明する時間はない。
     だが、結果として、この幕府のとった態度が、江戸庶民の神社・仏閣への参拝を盛んにし、全国的にも、熱狂的な物見遊山の流行に導いたことを認めないわけにはゆかないのである。
     
     事実、物見遊山を奨励するかのような、「東海道名所記」(浅井了意 1659年)には、「鎌倉の谷七郷、すべて三里四方あり、入口あまたあり、中にも江島口より腰越に出てゆけば、右の方は大海なり、海の中に島あり江島といふ。(中略)宿の入口を道場坂(遊行寺)といふ。右の方より大山に行く道あり、町はずれより左に江島見ゆ」
    と書かれてあり、各地の名所までの行程が実によくわかるのである。

     この仮名草子を源流として、各種の「名所図会」(1780年刊行が最初)が出版され、毎年改版を繰り返していた。
     また、安価で美しい「浮世絵(錦絵)」が登場し、旅をすることのできない人々や女性たちにも、ささやかな旅の疑似体験をさせてくれた。さらに6年に1回の割りで、浮世絵が多量に発行され、それも巳年と亥の年の弁財天のご開帳の年に集中していたという。
     このことからみても、絵師たちの目もまた、庶民の趣向・動向に敏感であったということがいえるのである。
     
     この頃になると、絵師たちは高貴な人々を滅多に描かなくなった。それに変えて、ごく普通に働いている漁師や木こりたちに目が注がれた。また、浮世絵界に風景画が誕生し、やがて主流となってゆくのである。
     寛政期中期にもなると、北斎(1760~1849年)や広重(1797~1858年)の「富岳百景」「東海道五十三次」などの作品によって風景画が完成され、化政期以降には、美人画と風景画を組み合わせた浮世絵までが売り出されるようになった。

     さらに、このような地方や名所への行楽ブームに目を向けるようになった絵師たちの傾向は、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」(1802~1809年)のような滑稽本にも波及し、例えば「(親仁)もしちっと道を問いますべい。江の島へはどう行きます。(弥治)おめえ江の島に行きなさるか、そんならこりょを真直ぐ行ってのう、遊行様のお寺の前に橋があるから・・・」のような言葉遣いで、弥次郎兵衛喜多八の失敗談や滑稽が生き生きと描かれるようになる。

    ここにも庶民たちの「おっとどっこい、おいらも生きている」という、差別された者たちの精一杯の生き様が活写されているのである。
     
     藤沢市では、その後も「浮世絵」を買い足している。 既に100枚を超える浮世絵を所蔵しており、私たちはパソコンで自宅に居ながらにして鑑賞することができる。
     浮世絵というものは、素材(人物・風景)をデフォルメすることによって、本物をより強調させた表現効果を狙っているようにみえる。

     また、和歌の本歌取りにも似た手法が浮世絵の世界にもあって、絵師は実風景を見ることなしに風景画を描くのである。
     このように浮世絵は、写実的でないことを前提にして描かれてはいる。
     しかし、現代の私たちからみれば、既に失われてしまった江戸や明治の風景・風物を知ることができるし、江の島が、音曲に関係する人々の信仰の篤かった場所であったということまでもが見えてくるのである。
     
     ここで、一つの疑問がある。
     どうして「浮世絵に描かれた江の島」は、七里ガ浜(片瀬東海岸)からみた景色ばかりなのだろうか。
     私の家からは、片瀬西浜海岸(鵠沼海岸)の方が近いからいうのではない。せめて1枚ぐらいは、片瀬西浜海岸からみた江の島(私だけが、その浮世絵を見ていないのではないかと危惧しつつ)が描かれてもよいのではないかと思ったのである。

     確かに浮世絵としては、富士をバックに白波くだける江の島の方がよいにきまっている。
     例えば、広重の「五十三次名所図会」に「藤沢・南湖の松原 左り不二」という絵がある。ここの南湖(茅ヶ崎市南湖であろうか)が、どこであるか定かではないけれども、ここにも江の島は描かれていないのである。

     おそらく、当時の地形的な条件もあって、片瀬西浜側から江の島を描くことはできなかったとも考えられる。
     でも、私には納得しかねるのである。何事でも他とは異なる視点から対象を見ることで、新しい発見があると信じているからには、このままではとても諦めきれないのである。
     
     以上、前段落の「一つの疑問」はともかくも、「江の島道」をより深く考察するための「浮世絵探訪」は大いに役立ったと思っている。
     
    実は、この浮世絵の学習に入るまでは「江の島の弁財天信仰は、御師たちの積極的な働き(島内での開帳やお札配りと、島外での積極的な出開帳の開催)による宣伝活動が、その起爆剤となって発展した」という課題を証明できればよいと考えていた。
     
     そのことを否定するつもりはないが、ふと「木を見て森を見ず」という諺が過ぎったのである。
     それというのも、浮世絵が生まれ・発展・変遷したプロセスを考察するためには、その浮世絵が生まれたところの時代環境に、もう一度戻してやるという作業が必要であるということ。

     これは面倒な検証作業であったが得るものは多かった。
     だが、この検証作業の過程では、江戸という時代に内在している様々な問題(怪物)が、次々と顔をのぞかせはじめたのである。
     しかし、たとえ厄介ではあったとしても、この怪物を避けていては歴史を正しく読み解くことはできないということを、ここでまた新に気づかされたのである。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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