SSブログ
立冬の鎌倉を歩く ブログトップ
前の1件 | -

立冬の鎌倉を歩く 【1】 [立冬の鎌倉を歩く]

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  立冬の鎌倉を歩く
 
【1】 

            鎌倉文士の足跡(圓覚寺の巻)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  •  今日は立冬です。

     異常気象の影響でしょうか、紅葉前線の南下は1ヶ月以上も遅れているそうです。
     妻は京都の紅葉がみたいと、珍しく自分から旅行計画を進めています。はたして京都のモミジは妻の予想した通りに、今月の中旬頃までには綾錦の衣装を纏って私たちを迎えてくれるのでしょうか。
     
     それでも今朝は、四季の移ろいの一つを立冬と名づけた古人に敬意をはらったものだろうか、この秋以降で初めての12℃の最低気温を記録したそうです。

     そこまで親切にしなくてもよいとは思うのだが、つづけて気象予報士は「朝は冷えますが、お出掛けには最適の日和です」と誘いかけて来るものだから、久しぶりに鎌倉でも歩いてみようかと立ち上がったのです。

     というのは趣味で始めた仏像彫刻の荒彫りをしていた時に、左指を3針も縫うようなそれも初めての怪我をしてしまったからです。
     抜糸して彫刻刀を握れるようになるまでには、約1ヶ月ほどはかかりそうです。こんな時に妙な言い方になりますが、そのお蔭で、完治するまでの期間がゆとりの時間となったのです。

     おまけにメタボ予防対策としてはじめた散策や自転車散歩も、この9月の仏像彫刻展の出品準備でとんと少なくなっていました。
     特に6月以後は、「雨ニモマケテ、風ニモマケテ、雪ニモ夏ノ暑サニモマケテ」しまったものですから、ほとんど家に籠もりっきりだったのです。

     そんなふしだらな生活でしたから立冬を迎えた今日一日だけでも、「久しぶりに、鎌倉でも歩いてみんべえ」と、カメラと地図を肩掛けバックに詰め込んで東海道線に乗り込んだのです。

     しかし、大船駅で横須賀線に乗り換えたものの、まだどこに行くとも決めていなかったのです。
     やがて北鎌倉駅に着いて少し色づきはじめた木々を車窓から眺めていると、なにかに憑かれたような気分になって、ここで降りようと立ち上がり発車間際の電車から急いでホームに降りたのです。
     
     思いがけなくそうなってしまうことを偶然というのでしょうが、私はその偶然と遭遇することが多いのです。
     私の小さな人生そのものが、偶然という見えない力によって救われたり生かされてきたような気がしているのです。
     
     つい最近も、偶然に偶然が重なって、圓覚寺のご老師とご懇意にしているという複数の方にお会いする機会がありました。
     そしてご老師のお書きになったご著書「ありがとうの人生」や、ご講話を収録したCD、ご揮毫なさった色紙などを戴くという幸運にも恵まれたのです。

     これは過去の経験からすると、ご老師に近々お会いする機会がおとずれる前兆かも知れないと思ったのです。
     それならもしお会いした時に失礼があってはならないと、今日はとりあえず少しでも圓覚寺の空気に触れておきたいと思ったからです。

     この寺には兄夫妻を昨年の夏に案内し、今年の春には妻と訪れました。いつ参拝しても、修行道場としての厳しさが感じられるこの静寂な空間が気に入っています。

     この寺は本来ひとりになるべき空間であると考えていましたから、なるべくひとりで訪れることにしています。
     ですからメタボ予防の自転車散歩で訪れる時も、なるべく観光客の少ない、緑と鳥の声につつまれるひとりの時間を大切にしてきました。
     無学不浄の身ですから参禅も写経もしませんが、鎌倉の時代から脈々とつづいている修行道場のその空気に浸るだけで癒されていたのです。
     
     三門の左横に建っている居士林という建物は、寺の建物としては少し変わっているなと前々から感じていました。
     しかし私ごときが、圓覚寺の解説をするつもりなど毛頭ありません。それは膨大に存在する圓覚寺資料にお任せして、何度訪れても知らないままでほったらかしにしておいた疑問が、ようやく解けことを喜んでいるのです。

     その疑問の解答は、建物脇に立てられてある案内板に書いてあったのです。このように「見えているのに、見ていなかった」ことへの反省の一つとして、この居士林のことを記録しておきたかったのです。

     この居士林というのは、もと江戸の牛込にあった柳生流の剣道場を移築したものだそうです。居士というのは在家信者のことだそうですが、ここは、その人たちの坐禅道場だそうです。
     でもどうして柳生家が、圓覚寺に剣道場を寄進しかについての詳細は書かれていないのです。
     
     柳生流には、無刀取りという技があるそうです。それは剣を持った相手に素手で立ち向かうという兵法だそうです。
     剣によって生きる剣士が、その刀に拠らないだけの無刀の境地に立つことで、武器なしで己を守るという兵法を獲得したのです。
     
     柳生宗厳という人は心の修行を重ねることによって、ついにその剣を無用とする境地に到達したそうです。
     ここでは修行によって得られた剣に頼らないという武道の精神と、仏教における厳しい修行によって悟り得た境地とは、心のあり方としては非常に近いものが存在しているのであろうかと無学の私にも思われるのです。

     全身全霊を賭して一所懸命の修行によって得られた境地には、私たち凡人からすると矛盾するように見えたとしても、仏の前では共通した世界観が存在するのでありましょうか。

     さて前置きはこのあたりにして、先ずは鎌倉文士の墓参りからはじめようと思います。

  


前の1件 | - 立冬の鎌倉を歩く ブログトップ