「今日の富士山」 09・NO8 [今日の富士山]
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今日の富士山 2009:3月 NO8
平成21年3月11日(水)~平成21年3月20日(金)
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- 平成21年3月11日(水)
昨日の夕刻、町内の防犯パトロールから帰った時のことである。曇っていた空の一角が急に切れた。
この季節の太陽が、このあたりに沈むということを初めて知った。真っ赤な太陽に照らされて、雲が追いやられるだろうと待っていたが期待はずれであった。
そろそろ「菜種梅雨」が開けるという。そして今朝は富士が見えた。
天気も気分もよいので東海道を歩いて戸塚に出た。
戸塚駅から柏尾川に出た。前々から気になっていた川沿いの道を大船まで歩いた。
気になっていたというのは、この川沿いの桜並木であった。今年は妻と歩こうと思っていたので、今日はその下見でもあった。
水ぬるむ街を流るる柏尾川妻と歩ゆまん桜咲くころ
逆光を避けて見上ぐる枝々に紅の色濃き早咲き桜
ふくらみし桜の枝より舞い下りて追えば逃れる雀また追う
錦鯉真鯉に緋鯉波立たせ群れる水面も恋の季節か
日没の富士に立つ雲紅に染まりて吾も黙してぞ立つ
なんという種類か知らないが、10数本おきに思い出したようにボンボリのような桜が咲きはじめていた。
見え難いが、写真の真ん中あたりに大きなパンをくわえたスズメがいる。追っては逃げられていたが、あまり食事の邪魔をしてはならないと、これ以上近づくことをあきらめた。
このところ、もう少しズームのできるカメラがほしくなった。
前方に大船駅が見えはじめたあたりで、しきりに川をのぞき込む老人たちがいた。なにかと思って私ものぞき込むと、川の水が盛り上がるような鯉の集会であった。
夕食後の富士は、太陽が沈んで身体も冷えてきたというのに、それでも見つづけたいと思うほどの美しさであった。この瞬間の富士に出会えただけで、見えないことが1ヶ月つづいたとしても我慢ができるのであった。
- 平成21年3月12日(木)
抜けるような青空とは、今朝のような空をいうのだろう。
「昨日の新聞に野茂さんのことが載っていましたネ」と妻がいう。
私は「うん」ととぼけたが、その記事を読んではいなかった。
今朝になって、廃品袋に捨てられていた野茂さんの記事を探し出した。そこには日米通算201勝を挙げて名球界に入会したという、「野茂さんに名球会ブレザー(「朝日新聞」)」というタイトルの記事が載っていた。
明日は荒れ模様だというので江の島まで歩くことにした。
鵠沼の住宅街を通り抜けようとした。広い邸宅の庭にはミモザや梅・早咲きの桜と辛夷の花が咲いていた。
失礼だとは思ったが、垣根越しに「鵠沼の春」を1枚撮らせていただいた。
陽だまりの道の垣根にぼってりと笑うがごとき辛夷花咲く
こどもらの声々もなき公園のみかん啄ばむヒヨドリのいて
烈風を形となして巌上の雄松の空をトビ啼きわたる
岩盤の割れ目を走る海水の行き場の失せて飛沫とぞなる
無機物のテトラポットは波砕き要塞のごとき江の島の春
境川沿いにある小さな公園を金網越しに覗くと、ヒヨドリが近くの庭の木から落果した夏みかんをつついていた。
カメラを気にしているようだが、バタバタと逃げてもすぐに戻ってくるのである。それほど夏みかんが甘いのだろうか、それとも金網越しで安心だと分かっているからだろうか・・・。
江の島に渡り青銅鳥居を左に折れて、島の裏側に回って防潮堤から岩場に下りた。
いつもは海水が満ちている岩場が、今日は姿を現わしていて100m以上の沖まで歩いて行けるのである。
ふり返ると、これも100m以上もある垂直な岸壁がそそり立って私を威圧してくる。
その岩壁を更に見上げると、風雪に耐えて白骨のような幹を晒す男松が岩塊を掴んでいるのが見える。その松の周囲には悠然と飛翔するトンビが、青空に融け込むように旋回しているのも見えた。
東側に目を転ずると、岩場の先に稲村ヶ崎・逗子や三浦半島までもが見えている。
近くに寄って見上げるテトラポットは、強烈な存在感で私を威圧するのである。
この岩場から見た景色は、地元の私でも滅多に見ることはできない。 - 平成21年3月13日(金)
「13日の金曜日」の夜には、春二番(?)が吹くという。
薄日がぼんやりと出ている。見ることはできないだろうとあきらめていたが富士が幽かに見えた。
午前は仏像彫刻をしていた。だが午後になっても雨は降りそうにない。
そこで折りたたみ傘を持って、行けるところまで歩いてみようと、東海道線づたいで辻堂に向かった。
辻堂駅を過ぎて旧東海道と合流した。しばらく歩いた右側に、小さいが佇まいのよい山門が見えた。ここは浄土真宗本願寺派上正寺である。
2003年4月に、本堂・宿坊の落慶法要を済ませたというが立派な建造物が並んでいた。
くたびれて道の辛夷を見上げつつ行けば親鸞おわす古寺あり
すでにもう泣き出しそうな曇り空石灯籠の文字透かし見る
年を経て役目を終えし寺飾りくれてやりたい雨よけの傘
この山門の隣に、堂々と立つ親鸞聖人像があった。
できることなら、木彫にしてみたいと誘惑に駆られるような立派な作品であった。
山門を入ってすぐ左に鐘楼があり、その前にこれも立派な石灯籠が置かれてある。
元々は上野寛永寺の四代将軍徳川家綱の墓前に収められてあったものが、茅ヶ崎の個人贈られたものである。以前に、「第二次大戦後の復興に援助した人に贈られたものだ」ということを聞いたことがある。
茅ヶ崎市には、この他にも多くの上野寛永寺の石灯籠が見られるが、おそらくこれらも所有していた個人が、茅ヶ崎市や寺院に再度譲渡したものであろう。
この寺にはこの石灯籠の他にも、茅ヶ崎市指定重要文化財の「聖徳太子立像」があるというが、これもいつの日にか拝見したいものである。
立派になった本堂に向かって歩き出した。すると参道脇のクスノキの下には、取り壊す前の本堂を飾っていたものであろうか、象や獅子の飾り彫刻が無惨にも雨ざらしになっていた。
このように腐って土に戻って次の命のための栄養となるのであろうが、私にはいましばらく、この形を留めておいて欲しいと思うのであった。
一粒の雨が額にあたったような気がしたので、慌てて山門から出た。 - 平成21年3月14日(土)
関東地方の春二番(?)のピークはずれ込んで、今日の昼頃までだという。
一昨日は、江の島の崖上の松ノ木が気になった。
昨日は、なぜか茅ヶ崎に行かねばならぬと気になった。
しかし、茅ヶ崎まで行けずに疲れて上正寺で折り返したが、今朝の新聞に「国道1号線沿い茅ヶ崎で最大 200歳の木姿消す 幹の空洞化進み伐採」との記事が載った。
このクロマツはまるで死刑囚のように、13日未明に伐採されたという。
啓蟄も過ぎて「菜虫化蝶」となったが、この暴風ではさなぎも蝶になるのを1日延期することだろう。
地域活動に参加して2年になる。イベントに参加するたびに親しい仲間が増えてくる。これが地域活動最大のご利益である。
午後には、強風もおさまったので藤沢市民ホールで開かれたイベントに参加した。
なにとなく参加していた日々なのに酒の誘いもちらほらと聞く
名も知らぬ演歌歌手にも声をかけ老いたる夫婦はなやぎている
お土産の花をぶら下げ帰り道雲の切れ間に春日もれ来る - 平成21年3月15日(日)
4日ぶりの青空に富士が美しい。
旅行案内書を見ていた妻が、「吉野の桜を見なくては・・・」とつぶやいている。
うとうとしていたら町内の清掃活動の時間になってしまった。
うたた寝の吾が腹の上飼い犬の呼吸(いき)に合せて上下しており
常日ごろ見なれたはずの公園の辛夷の花を驚きて見る
老たるも若きも共に春の日を浴びて勤しむゴミ袋負う - 平成21年3月16日(月)
弥生3月、ぼんやりの富士。
またも見たいと思っていた建物が焼失した。昨日、藤沢バイパス出口付近(横浜市戸塚区)の「旧住友家俣野別邸」が焼失した。
以前から東海道を歩いていた時に気になっていた建物であった。昨年この屋敷の門前を通りかかった時に、門塀に改修工事中との看板が出ていたので、完成後の公開を楽しみにしていた。
この近くにある、「旧モーガン邸」も火災で焼失していたので二重のショックである。
毎週月曜日は、愛犬チワワとの自転車散歩日である。
手広・常盤から長谷に抜け、かまくら名物「権五郎力餅」を6個買って、成就院を経て極楽寺駅前に出た。駅舎の前に、「第三回 関東の駅百選認定」の標柱があった。
鉄道ファンなのであろうか、その少年を真似て私も写真を1枚撮った。
なんでも、「関東の駅百選」が認定されるまでには過去4回の歴史があるらしい。神奈川の認定駅は25駅もあり、全体で4分の1が神奈川の駅なのである。
その中で「鎌倉と藤沢」にある駅名は、北鎌倉駅・鎌倉高校前駅・片瀬江ノ島駅・極楽寺駅・鎌倉駅の5駅でであった。
ちなみに、この極楽寺駅は第3回目の時に選定されたものであった。
このあたりが好きなのは、ここがかつて「月影ヶ谷」と呼ばれていたからである。
そして「阿仏尼(『十六夜日記』)」が、遺産相続の訴訟のために鎌倉に下った折、この月影ヶ谷に滞在していたからでもあった。
「東にて住むところは月影ヶ谷とぞいふなる。浦近き山もとにて風いと荒し、山寺の傍なればのどかにすごくて浪の音松風絶えず。(『十六夜日記』より))」
はるばると東に下り鎌倉の使者を待ち居る月影ヶ谷
京よりたらちねの母住みなれぬ松風の音侘びしかりけり
七里ガ浜から小動に出た。
海に白帆のヨットが美しいので、134号線を自転車で走る女性を撮り込んでみたいと思った。
ところが車は多いし自転車は通り過ぎてしまうし、おまけにヨットはその一部分しか写っていないのである。
その後も何枚も撮りつづけたが、結局この1枚目の写真を載せることにした。
- 平成21年3月17日(火)
空は晴れているが、春の霞によって富士は隠されていた。
朝から所用があって近場の散歩になった。
前に遊行寺に行った時に、なぜか気になっていた歌碑があった。
それ以前から川田順の歌碑であるとはわかっていたが、その日はあいにく曇り空で周囲の木々によって暗かった。そのうえ夕方でもあったので歌碑の文字は読めなかった。それでも和歌にしては、「いやに文字数が多いな」と不思議に思っていたからでもあった。
なんのことはない。これは一遍上人を讃える川田順の「長歌」であった。
糞帰依すその短くくるぶしも臑もあらはに
草鞋を穿かぬ素足は国々の道の長手の土を踏み
石を踏み来てにじみたる血さへ見ゆがに
いたましく頬こけおちておとがひもしやくれ尖るを
眉は長く目見の静けく
たぐひなく敬虔をもて合わせたる掌のさきよりは
光さへ放つと見ゆれ伊予の国伊佐庭の山のみ湯に来て
為すこともなく日をかさねわれは遊ぶを
この郷に生まれながらもこのみ湯に浸るひまなく
西へ行きて東へ行きて念仏もて勧化したまふみすがたを
ここに残せる一遍上人
もと江戸城の石垣石に、川田順の自筆銅版を嵌めこんだものである。
碑の裏面は、植木が邪魔して見えにくいが、「川田順先生が、昭和21年秋松山市の宝厳寺の木彫の一遍上人像に出会い作られし詩を井渡氏に送りし自筆なり、先生の十三回忌・・・(一部解読不明)」と読むことができた。
この長歌を口ずさんでいると、なぜか本堂前の「一遍上人像」が思い出されてきた。
そして松山市の宝厳寺で川田順が出会ったという木彫像と、本堂前の一遍聖人像とが重なって見えるという錯覚にも襲われた。
めずらしく読むことに夢中になってやがて目を上げると、放生池のほとりにある大木の辛夷の花の白さがあたりを清浄なものとしていた。
しばらくながめていると、隣にも辛夷の咲く景色に魅了されて立ち尽くしている老人がいた。
なんと仏像彫刻の仲間の一人であった。
このところ、この御仁とは馬が合わないと敬遠していたのであった。しかし、こうして偶然に遊行寺の辛夷の花の下で出会ったのも仏の引き合わせだろうと思えるのであった。
私たちは境内にある自動販売機で、「午後の紅茶」を買い込んで鋳物のベンチに向かい合って腰を下ろした。紅茶を一口飲んで、戦前愛媛の小さな島で育ったという苦労話を聞くともなく聞いていた。
人はみなやさしくなれる春の日に辛夷の花のいま盛りなり
ときめきは小さな日々にあるものと思える今日の空青々と
日ごろから気になるものに導かれ詣でし寺に辛夷咲く見ゆ
なんとご利益はすぐに現われるもので、朝から黄砂と霞で見えなかった富士が、日没間際になって突然影絵のように、それも一瞬ではあったが見えたのである。
信仰とは、こんなところからも起こることもあるのだろう。 - 平成21年3月18日(水)
「春霞+黄砂」の影響であろうか、富士のあたりは靄っ見えないでいる。
藤沢西部地区の防犯パトロールがあった。
親しくなった仲間の一人が、近々「甲州ぼうとう」の旨い店に案内するという。同じ甲州でも私のところは「煮込みうどん」で、甲府あたりになると「カボチャほうとう」となり、富士吉田あたりに行くと「吉田のうどん」となる。
どれも好きだが、あの少々しょっぱいが田舎味噌のカボチャぼうとうを食べてみたいと思っている。その店の主は、甲州出身だというから期待できそうである。
甲州は米のとれない土地だから幼き日々の夕餉は煮込み
このあたり事件のありし土地なれば咲く三椏に話題賑わす
パトロール会話楽しみ手を振って少年のごと家路へと着く
侍ニッポンは、「4対1」で韓国に完敗した。
あきらめていた富士がまた日没間際に見えた。富士の裾野に半分隠れた太陽を狙ってみた。この太陽はやがて富士の頂上あたりに沈むことになるのであろうか・・・。ここに6年住んで、まだ知らないこともある。
明日は、準決勝の座を賭けて再びキューバとの戦いがある。
- 平成21年3月19日(木)
やがて見えるだろうと待っていたが、ついに今朝の富士は見えなかった。
これも前々から気になっていた辻堂の、「熊ノ森(権現)神社」に出かけてみた。
近くまで行って地元の人に尋ねると、あそこだというので行ってみると八幡様であったり、そっちだというので行ってみると諏訪神社だったりで、目当ての神社にはなかなか到達できないのである。
ようやく地元の町内会長さんにお聞きすることができた。すると会長さんは「辻堂歴史散歩案内図」をコピーしてくださるのであった。
これで行けると思ったらまた迷った。
今度は八百屋の奥さんに尋ねると、「その先のトラックのある所を右に曲がると石段があり、その上に権現さんがあります」と教えてくださる。
なんと、8人に尋ねてようやく辿り着いたのである。
歌碑には、
柴松のくずのしげみに妻こめてとがみが原に牡鹿なくなり
と読める。
万葉仮名・漢字と平仮名等の異同はあるものの、歌の内容に問題が生ずるわけでもない。しかし、「柴松・紫松・芝まとふ」とか、「牡鹿・牝鹿・小鹿」などの相違は問題となるところであろう。そのうえ、この歌を西行が詠んだかどうかも判然としないのである。
とはいうものの、これも「砥上が原(とがみが原)」のゆかりの歌だと思って味わっておこう。
歌碑の裏面には、
少而学 則壮而有為
壮而学 則老而不衰
老而学 則死而不朽
佐藤一斉
とあった。
石も形もよいし文字も美しい歌碑ではあるが、いつだれが建てたものかも判然としない。
ようやくに探し当てたる熊ノ森歌びとの碑は黄昏に建つ
住む人のやさしさに触れ西行の歌を詠ずる静かなる時
ビルの谷今は昔の物語砥上が原を渡る風よし
朝見えていない富士が、夕方になって見えることが多くある。
雲に覆われていた日の光が、富士の裾野に落ちて行こうとする時に一瞬だけ顔をのぞかせる。すると突然に富士のシルエットが浮かび上がるのである。
こんな当たり前のことに感動できることが嬉しいのである。
- 平成21年3月20日(金)
昨日侍ジャパンは、「5対0」で再びキューバに勝った。
感涙でもないだろうが、午前中は雨とかで富士は見えない。
さっき侍ジャパンが「6対2」で韓国に勝った。すると雲が切れて富士が見えた。
そろそろ桜が気になってきたので、引地川の親水公園に行ってみることにした。
愛犬チワワも一緒に行くのだと、先ほどからまとわりついて離れない。
桜のつぼみはまだ固かったが、川のほとりでは釣り糸を垂らしている人や土筆を摘んでいる家族連れがいた。
川べりに春をさがして女性(おんな)らの土筆の袴扱(しご)き語らう
父親のたまの休みに釣り糸を垂らせし子らの顔嬉々として
ばあさんと孫と見ゆるや低木の桜の枝を引き寄せて見し
中州の葦はまだ青さは見えないが、2匹のダックスフンドを連れた少女は、3連休の最初の日に小さな春を探しに来たのだろうか・・・。
2009-03-21 10:06
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