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立冬の鎌倉を歩く 【2】 [立冬の鎌倉を歩く]

  • 立冬の鎌倉を歩く 【2】

            鎌倉文士の足跡(圓覚寺の巻)

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  •  選仏場の隣に、松嶺院が見えています。

     この塔頭の門は、いつもは閉ざされているはずなのに、どうしたことでしょうか、今日は門が開かれ、庭に咲く濃い紫色の野ボタンをのぞき見ることができるのです。

     春と秋には、一般公開するとは聞いていましたが、立冬の今日でも入ることができそうなのです。さきほどは、何かに引っ張られるようにして北鎌倉で電車を降りましたが、こんなプレゼントが用意されていたのです。
     
      鎌倉の松嶺院と聞けば、先ずはじめに有島武郎の「或る女」が思い浮かびます。
     幼少時の武郎は、由比ガ浜に父の別荘があったことから、この鎌倉にはよく訪れていたそうです。一時は鎌倉を離れて上京していましたが、大正8年になりまして、関東大震災で倒壊する前の松嶺院の2階を借りて、20日あまりも籠もって「或る女」の後編を執筆したそうです。

     さすが山野草の花の寺と言われるだけあって、松嶺院には、色とりどりの秋の花が咲いています。
     夏の強烈な色合いとは異なり、どことなく淡く奥ゆかしい小さな花々の名前を確かめているのでしょうか、参拝の女性の腰をかがめて覗きこんでいるのが見えます。

     塔頭の建物を、右回りに入りますと玄関となります。掃き清められた石畳の細道に導かれて玄関に入り、よく磨かれた板の間にあがると、翁の形をした素朴な香炉の横に、柿・栗・林檎・石榴・葡萄などの果物が平たい籠に盛られています。
     さりげなく置かれた、この秋の稔りは、客を迎える心づくしなのです。

     仏間に入りますと、数人の老婆の合掌する姿が目に入りました。静かな祈りの時間を邪魔しないようにして、そっと仏像を拝見します。そこには仏師の精魂傾けた白木作りの釈迦牟尼仏が安置されてありました。

     ここでは見張り番のいないことに気づき、この塔頭のご住職のお心の広さが感じられました。朝夕のお勤めをする座布団の後ろには、「焼香の時、導師に低頭(おじぎ)は要りません」としたためてありました。
     こんな些細な言葉の中にも、この宗派における謙虚で厳しい修行のあり方が察せられるのです。

     日々丹精しておられる野の花に導かれるようにして、建物の庭を巡り、裏の高台にある霊園に向かいます。
     塔頭の墓所だけにこじんまりとしていますが、明るく清浄な空気です。入口近くにあって、線香の煙りと花につつまれて眠る阪本弁護士の赤御影づくりの五輪塔に手を合わせます。

     苦節十年、38才の時に「厚物咲」で芥川賞を受賞した中山義秀は、昭和18年から鎌倉に住み、鎌倉文士として活躍したと伝えられていますが、その墓石は四角い黒の御影石でした。
     漫画家で「かっぱ川太郎」や「かっぱ天国」でおなじみの清水崑の墓は、いかにも、この人らしいという感じのする小さな自然石が置かれていました。

     鎌倉を歩いていますと、この女優のエピソードを、まだ昨日のことのように語る人々に出会います。その女優田中絹代の墓碑には、若い頃の立体ブロンズ像がはめ込まれてありました。
     俳優の佐田啓二の墓石を確認することはできませんでしたが、まるで河原にあった自然石を、そのまま運んできたような、大きな墓石に小さく「健」と刻してあるのが開高健のお墓です。
     
     かつての鎌倉は武士の住む都でありましたが、何によって惹きつけられるのかは知りませんが、多くの作家や芸術家たちが、一度は、ここに住んでみたいと思うような魅力のある街なのだそうです。
     この鎌倉という地名が、もし長い歴史とドラマによって裏打ちされることがなかったとしたら、その辺の、どこにでもある野暮ったい地名のままであったかも知れません。

     恥ずかしながら、分不相応な私でも、一度ならず、この鎌倉に住んでみたいと憧れたこともありました。しかし、この鎌倉は歴史風土・自然環境保全地区ですから、一木一草といえども届出なしには、切り倒すことはできないと聞いたことがあります。
     そこが貧乏人の力強いところなのです。しょせん適わぬ夢ならば、こんなことまで言い訳の種にして、せめて鎌倉は散策だけでも楽しむことにしょうと見得を切るのです。
     
     この松嶺院の高台から、居士林や選仏場を見下ろします。今日から冬だというのに、木々はまだ緑の衣をまとっています。ここから山門を見下ろすような機会は、これからも滅多にあるものではありません。
     お参りの人がいないことをよい事にして、無遠慮にも、急な階段に腰をおろして、いつも見慣れているはずの圓覚寺を、角度を変えて見ることで、あたかも村里のような懐かしい景色を目に焼き付けようとしていたのです。

      
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     松嶺院を辞して仏殿に礼拝、方丈・書院の庭に立ち寄ります。柏槙(ビヤクシン)の大木は、樹齢700年にして、初めて樹木医の手当てを受けています。この木の実は紫黒色の球果なのですが、どうしたことでしょうか「舎利樹」とも呼ばれているのだそうです。

     その話を聞かせてくださった人は、この庭にある毘蘭樹(ビランジュ)を指さして、「これは、皮が絶えず剥がれ落ちることから、身ぐるみ剥がされることに譬えられて、博打の木ともいわれています。その隣の木斛(モッコク)の木は、おしゃべりの木といわれ、線香の元になる木です」と話していましたが、櫛や床柱・染料になることは聞いたことがありますが、どうして、これがおしゃべりの木なのかを聞くのを忘れていました。

     外国人の団体が賑やかに入ってきましたので、私は仏日庵に向かいます。
     ここの門は閉ざされていますが、銀杏が少し黄葉しています。門前から北条時宗の廟所を拝しながら、この仏日庵にご案内した友人や知人たちのことを思い出していました。

     でも一度も、この門の横にある大きな白木蓮が咲くのを見たことがないのです。いや正しくは、咲いている季節に訪れたことがなかったのです。やがて葉が散り春が来て、この花の咲く頃には、はたして誰と訪れるのでしょう。
     
     大仏次郎の小説「帰郷」は、戦後の日本の風潮に対する怒りが、主人公の恭吾を通して語られていましたが、さて、この仏日庵の白木蓮の描写があったかどうか、どうしても思い出せないのです。
     ここは、立原正秋も、自伝的小説と言われている「冬のかたみ」の中に、建覚寺として登場させています。あの川端康成は「千羽鶴」で、「鎌倉円覚寺の境内にはいつてからも、菊治は茶会へ行こうか行くまいかと迷っていた。時間にはおくれていた。」と書き出しています。

     そこまで思い出していましたら、あの方丈で出合った外国人が追いついてきました。

      
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     この寺だけでも、見たり聞いたり思い出したり、そして思索することもできるのですが、今日の目的は、歩くことにありましたから、そろそろ圓覚寺さんには失礼しようかと山門まで戻ってきました。
     
     そこまで来て思い出しましたのは、今日の散策の目的として「鎌倉文士の足跡を訪ねてみる」を、2番目に入れてあったことです。
     そこで久しぶりに、あの夏目漱石が参禅した帰源院にでも行ってみようかと、急遽、予定変更をしたのです。これがひとり散歩のよいところで、思いつきで、いくらでも方向転換が可能なのです。
     
     私は山門から左に折れて、帰源院の坂道へと向かいます。
     階段上に塔頭の門が見えるところまで来ましたが、門はかたく閉ざされています。このまま帰るのも惜しまれて、その階段下の道を右に回り込んでみました。
     そこは垣根で囲まれているとはいえ、帰源院の建物と庭を拝見することができました。
     
     はしたないことでしたが、その庭を覗き見ると、京都から運んできたと聞いたことのある自然石に「仏性は白き桔梗にこそあらめ」と彫られている、夏目漱石の句を読み取ることができました。
     漱石は、明治27年に帰源院に止宿しましたが、その折の体験が「門」や「夢十夜」に描かれているというのですが記憶にないのです。どうせ暇なのですから家に帰って読み直すことにします。

     先日も、大磯の島崎藤村の住んでいた家を訪ねました。そして近くの寺にある特徴的な細くて長い墓石にお参りしましたが、その藤村も明治26年には、2度も帰源院を訪れています。
     あの小説「春」に描かれた、僧衣を貰い受けて旅に出る岸本が、藤村自身の投影であるとも言われていますが、これとてもすっかり忘れていたのです。

     この寺にお参りして、いろいろなことが忘れ去られていたことを幸せに感じていました。

      ※ この記事と関連のある、「写真2 鎌倉圓覚寺」を参照ください。

 


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