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東日本大震災から31日目  [つれづれの記]


  
         
東日本大震災から31日目 
       
                      
 
平成23年4月10日(日)

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  • 「東日本大震災」の日から、31日目となった。

    今朝の「朝日新聞」には、「被災者死亡者数・安否不明者数」の囲み記事が消えていた。その代わりに、1面トップの大見出しには、「死者1万2915人 半数高齢者」と書いてある。

    私は大震災の日を入れて、今日が「東日本大震災の日から、31日目」としているが、新聞では「あす震災1ヶ月 安否確認は難航」と書かれていた。

    さらに、
    「原発事故 混乱の1ヶ月」「見直し迫られる津波防災対策」「金融市場これから正念場」「近隣国の対日外交 変化の兆し」「被災地の要望 ネットで仲介」「30分間 14時46分から」
    と書かれてあって、大震災から1ヶ月が過ぎて、なにか変化が起こりつつあることを感じていた。

    見出しを見ただけで、それらの記事を読む気もなく閉じた。

    ところで、これからの私は、なにを見ようとしているのであろうか・・・。それに今日は知事選の投票日である。

    こんな時期には、少し強引で強面でもよいから、強権を発動するようなリーダーの登場を期待するものらしい。

    「それにしても、東日本大震災を境にして、もう1度日本の再生を図ってゆかねばならない。」と私も願っている。

       ・  ・  ・

    4月3日とはなったが、なにも書く気がしない。これといってすることもなく、「朝日新聞」の紙面紹介の一覧表を見ていた。

    「大震災関連ニュース」として、『わからん! 巨大地震なぜ起きた』『多彩な識者集め復興構想会議』『三陸沖~茨城沖、予想見直しへ』『祈りの刻「午後2時46分』『東北経済への影響 日銀「甚大」』『東電社長、福島知事に会えず』『離れらぬ肉親の情「あの30分」』『仮設入居の悩み』

    その他にも、『社説 土俵際の敗北民主/大阪都構想明確に
    』、『耕論 「計画停電」は不可避だったのか。東京電力副社長らが電力不足について語る』

    また、『公的資金の返済期間延ばす案
    』、『民主敗北 公約撤回を自民要求』、『韓国の原発停止求め法廷闘争』
     
    などと書かれてあった。

    この見出しをながめているだけで、大震災から1ヶ月が経過した日本の様々な現状や問題点も浮き彫りにされる。

    ところで前回のブログで、あの「漂流犬バン」が、やがてテレビドラマか映画になるだろうと予想したことがあった。

    同じようなことを考える人はいるもので、今度は「中国人研修生を救った佐藤充さんのこと」が、中国でも話題になっているという。
     
    あの大津波の日に、中国人研修生20人を高台に避難させた後で、妻と娘さんを探すために佐藤さんは出かけて行ったが、2度と戻ることはなかったというのである。

    その佐藤さんのことが、いま中国で評判となって、やがて映画化されるのではないかとの噂であった。

    被災者の様々な苦難を思う時、涙が溢れてどうしようもないが、このところ美しい話も聞こえてくるようになって、今度は感動の涙が毀れるのであった。

       ・  ・  ・

    私たちのような隠退者の戯言は、所詮「ごまめの歯ぎしり」だとは分かっている。   

    原発にうんざりした人たちが、雨後の筍のごとく、「日本には地熱発電がある」と叫びはじめた。

    風力も太陽光も水力も、もしかしたら原発より効率が悪かったにしても、これだけ進んだ科学力を駆使すれば、やがて原発を超える力を引き出せるかも知れないのだ。

    今朝も、ボケ防止のためのパソコンを開いてみた。

    すると、「Yahoo! JAPAN」のトップ・ページ、トピックス欄の下に、「東京電力の電力使用状況」というのがあることに気づいた。

    恥ずかしいことだが、いつから、この種の情報が掲載されていたかを知らない。

    そこには、 「4月13日7時台(毎時更新) 使用量「4150万kw」分の「2953kw」 使用率71%」と書かれていた。

    これを見れば、私のような者でも東京電力の最大出力kwと、消費電力kwの差が明確に分かる。

    できることなら、これを、テレビ画面の隅にでも載せたらどうだろうか・・・。

    かつて、水不足の時にも、ダムの貯水量をテレビ画面に載せていたことがあった。それを見て、私のような者でも「水を大事にしなければ・・・」反省したことがあった。

    このような時期でもある。
    これから暑くなれば、ますます電力需要が増してくるであろう。
    それに、少し明る過ぎる都会の夜を、この機会に変えられるかも知れないのだ。
    おそらく、どこのテレビ局でも、この節電テロップに反対はしないであろう。
    いや、そのテレビ局が、そろそろ検討を始めているかも知れない。

    私のごとき、ごまめの歯ぎしりしかできない者が考える先に、もう既に動き始めているだろうとは思う。

       ・  ・  ・

    (4月14日)

    こんな大震災でも、多くの被災地の住民は我慢してがんばっておられる。

    そんな人々の苦しみを共有しているから、「せめて離島でも、同じようにやってくれ・・・」と、その地の区長さんは声を振るわせている。

    首相が、言ったとか言わなかったとかが問題ではない。自主避難地域の村長さんを、「とても許せることではない・・・」と涙をこぼさせるような軽率な発言が問題なのである。

    世界中で、「どんな時にでも冷静に、あわてず騒がず、逆になけなしの食料をボランテアの人たちにご馳走する」被災地の人々の行動や行為が賞賛されているという。

    どのような災禍にあっても、日常を粛々と生きようとする国民が素晴らしいから、どんな人物が上に立ったとしても、この国の国民の生き方にはブレがない。

    この国では、権力でもなんでも、上に立ちたいという者には、好きなように立たせてやっている。だから、その立った者がたとえ無能であったとしても気にすることはない。それは、その人の力量なんて、はじめから期待していないからである。

    いつの時代から、日本のリーダーは、こんなに体たらくになってしまったのであろうか・・・。

    こんな時に、もし「あの司馬遼太郎なら、『この国のかたち』の続編を、どんな風に書くのだろうか・・・」と惜しまれる。

       ・  ・  ・

    どうやら、私の勘違いであったようだ。

    今朝の「朝日新聞(4月15日)」には、「被災者数、死亡13,498人、行方不明14、734人」と載っていた。

    この「不明人数」だって、まだ不確かなものであるという。
    原発で、被災地全体の「救助が遅れたこと」は確かであろう。
    原発の付近では、ようやく数日前から捜索がはじまったという。
    もし、手順の問題などで、尊い人命が失われたとしたら悲しいことだ。

    久しぶりに、都内に出てみた。
    藤沢から新橋、そして東銀座に向かった。
    ところが、JRも地下鉄浅草線も、先日まで止まっていたエスカレーターが動いていた。

    「東京電力の電力使用状況」によると、夕方でも75パーセントであったから、まだまだ余裕があるとは思うのだが、果たしてこのままでよいのかと気になるのである。

    こんな時だから、電力需要における様々な問題点の検討や、夏場に向けての節電計画のあり方についても、着実に研究しておくべきではないかと思ったのである。

    と書きながらも、いやいや「ごまめの歯ぎしり」ごとき者たちの浅知恵よりも、もっともっと抜本的に検討がなされているよと期待しているのである。

    今度こそはと・・・。

       ・  ・  ・

    震災以後、ようやく感動したテレビ番組2題を観ることができた。

    その一つは、4月10日(土)の夜、NHKテレビ1、「マイケル・サンデル究極の選択『特別講座 大震災後の世界をどう生きるか』 日米中の若者とのグローバル白熱教室」である。

    感動を忘れたくはないので、新聞のテレビ欄にあったつづきも書いておくと、「人間の美徳とは? 勇気とは? 希望と再生を探る」とあった。

    もう一つは、4月11日(日)の朝、TBSテレビ6の「時事放談」である。

    それも、 コロンビア大学教授のジェラルド・カーティスさんの発言である。

    もっと言えば、TPPなどに関わる発言を除いた部分、つまり「東日本大震災」に関する発言の部分だけである。

    ただ残念なことに、一つは夜で、一つは早朝であったから、寝室で聞いていたのであって、画像を観てはいないのである。

    もっと残念なことは、最近になって物忘れが酷くなり、その時は確かに感動していたはずなのに、時間が経過するとすっかり忘却してしまっているのである。

    だから、再放送でもあれば、メモでも取りたいと思うが、おそらくこれもすぐに忘れてしまうのであろう。

    それでも誤りを覚悟で思い出してみると、「コミュニティーに起こった問題は、グローバルとはなり難い」との視点からの発言を土台にしての討論であった。

    それも、番組の後半部分だけを観ての感想である。

    哲学者ルソーの「地域がグローバル化することは難しい(?)」と述べた部分を引きながらも、あるボストンの女子学生の「地球の裏側にいても、今回の日本の災害には共感できる(?)」との言葉を軸にして、「ある地域の問題は、ルソーのいた時代を超えて、今やグローバル化する可能性がある(?)」と、
    マイケル・サンデル教授が総括していた。

    と勝手な解釈をしてみたのである。

    まして、文中の(?)で示したように、自分の解釈に都合よくまとめているのである。

    それにしても、あのボストンの女子学生が共感したという、「あの大震災の渦中にあっても、暴動も略奪も起こらない日本人の文化度の高さ」という言葉を忘れないようにしたいものだ。

    思い出せない。
    やはり、再放送が観たい。

    (後日談) 4月24日(日)の「朝日新聞」に、サンデル教授に関する記事が載った。

    一気に読んで、保存用にと切り抜いた。

    見出しには、「世界から被災地へ 東日本大震災 『国境超え、世界市民意識築けるか』 サンデル教授、震災を語る」とあって、小見出しに「原発議論、避けないで」「途上国援助で役割を」とあった。

    その議論に入る前に、先ずサンデル教授は「日本へのかつてない共感を広げた東日本大震災で、国境や文化を超えて、他者の痛みや喜びを自分のことのように共有する「世界市民」の意識が生まれるだろうか」と問いかけたという。

    このサンデル教授の問いかけは、私の4月11日の曖昧記事の内容を、多少補ってくれたような気もする。

    また、「誰が枠組み設定を担うべきか。」との取材に、サンデル教授は次のように語ったという。

    政治指導者に責任があるが、しばしば機能しない。有権者が望まないからだ。民主主義に不可欠な、自ら考えて議論する市民を育む教育の責任が大きい。メディアも意味ある議論を提起する義務がある。

       ・  ・  ・

    明日は、東日本大震災から数えて、41日目となる。

    大きな交通事故を起こして、呆然としている運転手に、周囲の群衆や報道関係者などが取り囲んで
    、「酒は飲んでいないのか、なぜ事故になったのか、昨夜はどこにいたのか、労働時間はどうなっているのか、会社はどこにあるか、あんたの家族は・・・」などと詰め寄っている傍らで、大怪我をしている人が、そのまま路上に放置されていたとしたらどうなるだろう。

    たとえはよくはないが、大震災以後の当事者たちの言動は、まさにこれと同じものであった。

    それも、あの日から40日も経過しているというのに、それを改善しようとする兆しが一向にみえないのである。

    原発を管理している当事者も、この国を任せられている政治家も、いま苦難に陥っている避難者たちには目もくれず、どうしてこのようなことになったのかと、その原因究明(なすり合い)に躍起となっているのである。

    そんなことは、原発の・・・、被災地の復興がなった時に、どうぞごゆっくりやって欲しいものである。

    このような非常事態にあっては、「どうすればよいかを洞察して、自己の信ずるところを、勇気と責任を持って決断すること」がリーダーの資格だと考える。

    司馬遼太郎が、「この国のかたち」の中で、こんな風なことを語っていたような気がする。

    ところで、「お前は、自分に都合が悪くなると、いつも司馬遼太郎の言葉を引用する」と揶揄されるかもしれない。

    しかし、そう批判されても、もともと読書量が少ないのであるから、あまり言い訳もできない。それでも言い訳が許されるならば、「読書量が少ないからこそ、その分読んだ作品には強く影響される」と言いたいのである。

    「彼は本の虫」と評判の人がいた。

    しかし、「ここは行動しなければ・・・」という肝心な時に、おたおたして結局なにもできなかった人を何度も見たことがある。

    この数年、売り払ってだんだん少なくなった蔵書ではあるが、「この国のかたち」はまだ残してある。

    そろそろ、読み直してみたものである。


    (註)大震災から41日目を迎えるまで、私には書くことがありませんが、なにか書くことを探してみます。




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