仏像を彫る【二話】 [仏像彫刻]
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仏像を彫る
微笑みに逢いたくて(二話)
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- 「なぜ仏像を彫るのか」という問いにもっともらしい回答をしながら、いつもすっきりしないものを感じていたと一話で書きましたが、これも難しく考えるほどのことではなかったのです。
明確にすべきところを、明確にしょうとする作業を怠っていたからです。
漠然としたままの方が都合がよかったからかも知れません。あるいは思索することを避けて、言葉にしようとする努力を怠っていた方が気分的には楽だったのかも知れません。
その証拠に、「仏像でもなんでも理屈じゃぁねえんだ。彫っているうちに自然と答えが見つからぁ、理屈を捏ねているようじゃぁ、まだまだ修業が足りねえぜ」と叫びたい思いが頭の隅にあったからです。
長い年月一つの仕事に打ち込んだ職人の仕事には、その経験に裏打ちされた見事としかいいようのない、手抜きのない傑作に出会うことがあります。
本物の職人というものは、ぐだぐだと屁理屈などをこね回さないものです。
それは出来上がった作品が全てであり、その作品が能弁に語りはじめるからです。
別な言い方をすれば、言葉を越えたところの職人の熱意と工夫と精進と生き様と偶然とが、一つの作品として結晶化されているからです。
と考えている自分がいるから厄介なのです。
ある時友人に、「どうして、いつまでも、そんなことで悩んでいるのだ」と笑われたことがあります。
別段笑われてもいいのですが、寡黙を押し通してその仕上がった仕事だけで勝負をしようとする職人の生き様に強い魅了を感ずるからです。
そこには真実を押し曲げてしまいそうな、言葉の働きなんて不要だといいたい気持ちが存在したからです。
しかし、そう思いながらも浅学菲才の身を恥ながらも、この曖昧にみえる世界を具体的な言葉で表現してみないことには、解ったという実感が湧いてこないのです。
もっと言えば、この「もやもやしているもの」「掴みどころがないもの」を、私の生活に合った言葉で紡いでみたいのです。
言葉の持つ「働きと力」を信じてみたいのです。
「考えながら書く」と言ったのは、確か小林秀雄氏であったかと思うが、私の場合は「迷いながら書く」ということになるのでしょう。
なにかに突き動かされて仏像を彫っていることだけは事実なのですから、その彫ろうとする私自身の心のあり方について、いつまでも曖昧のままにしておくことがチョッと淋しいからです。
今回もまた徒労に終わるか、あるいは途中で投げ出すことになるのかも知れませんが、許された時間のなかでいましばらく自問自答をしてみることもあながち無意味なことでもなかろうと思うのです。
「仏像を彫る(一話)」を書くのに、ずいぶんと苦労しました。
たいした内容を書いているわけでもないのに苦しんだのは、自分が書こうとすることが見えていないままに書きはじめたからです。
確かに、このことについては長い間書きたいと思っていたことだったのです。
実際に何度か書きはじめたこともあるのです。だがいつもいざ書こうと思っても、なにから手をつけたらよいのか見当がつかなくなるのです。
見たり聞いたりしたことを気楽に書いているうちは楽しいのですが、ことが自分の心の問題となると、どうしてこんなにも書けなくなるのだろうと不思議なのです。
しかし、このまま書こうとして書けないでいては、ついに書けないままで終わってしまいそうな気がします。
そこで私的なブログを利用して思い切って書きはじめましたが、その結果が一話・ニ話によって証明されたように、なにをどうしようとするのかさえも分からないのです。
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そこでとりあえず「もの」をつくるということに興味を持った、その過去を振り返ってみることからはじめてみたいと思います。