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立冬の鎌倉を歩く 【3】 [立冬の鎌倉を歩く]

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  立冬の鎌倉を歩く
 
【3】

            鎌倉文士の足跡(亀が谷坂切通しの巻)

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  •  圓覚寺の坂をおりながらも、まだ次の行き先が決まっていなかったのです。

     この坂を真直ぐに下って、横須賀線を突っ切り東慶寺にでも詣でようか、それとも左に折れて明月院にでも行こうかと迷っていたのです。

     いつもならそれほど頻繁に通過することのない横須賀線が、どうしたわけか今日に限って上り下りの電車が同時に踏み切りを塞いで通せんぼをしているのです。といっても、待っているのが辛いほどの時間でもありません。
     
     その時小学生のグループが、ワァーと脇をすり抜けて駆け出しました。つづいて女の子のグループも、その子たちを追いかけるようにして走り出しました。私もつられて、その子たちの走り去った明月院の方向に向かって歩き出したのです。
     円覚寺前を集合場所にしていた私と同年輩のグループも、リーダーを先頭にして、やはり同じ道を歩き出しました。

     その人たちを見送るようにして歩をゆるめ、どことなく冬の訪れの感じられる生け垣と、横須賀線とに挟まれた道をひとりになって歩きはじめました。
     
     北鎌倉は古代には政所などの知家事(ちけじ)の官舎のあった土地、平安末期には首藤氏が荘官として居住していたと推測されている土地だそうです。
     山と山の間にあって空が狭く感ずる土地です。 だから、このあたりを山ノ内というのでしょう。そんな朝日が遅く夕暮れの早い土地であったから、このように多くの名刹が建立されたのでしょう。
     山ノ内という言葉の響きには、長い歴史の祈りの時を経ているからでしょうか、やわらかで優しさが感じられるのです。
     
     小学生のグループとリュックサックを背にしたグループは、左に折れて明月院に向かうようです。
     それを見た私は真直ぐに進んで横須賀線の踏切を越え、民家の庭にある多羅葉(たらよう)の木を見上げます。
     この木は別名「はがきの木」といって、葉書の語源になった木であると聞かされたことがあります。木の先を鉛筆のように尖らせたもので、葉の裏側に文字を書くことができるから葉書というのですが、120円切手を貼ればポストに投函することもできるのだそうです。
     これも聞いた話の受け売りですが、この木は葉がよく繁るものですから、家の防火壁として植えることもあるそうです。

     この多羅葉の実が赤く熟れるころには、山からヒヨドリがやって来るだろうと思いながら、車の来ないのを確かめて反対側に渡ります。
     そこの歩道脇に隠れるようにして建っている「安倍清(晴)明大神」の石碑を、チラリと覗いてから長寿寺の脇を亀ヶ谷坂切通しに入ります。
     
     この道は3代執権の北条泰時の時代に整備されたと伝えられていますが、中世の文献に記述がないことから、比較的新しい切通しではないかとの説もあるようです。
     しかし、扇ヶ谷と山ノ内を結んで武蔵方面への交通の要であったことや、この切通しを抜けた地域の歴史的重要性(浄光明寺・寿福寺)を考えますと、ただ切通しということだけにこだわらずに、この付近に古い道が存在していたとみるのが妥当であるような気がします。

     誰もいないことを確かめてから入った亀ヶ谷道だったのですが、またも小学生の群れが元気に追い抜いて行きました。
     思わず「この先は急坂だから、走るなよ」と声をかけてしまいました。ふり帰った小学生は一斉に「ハーイ」と返事をして、そのまま駆けだしたのです。
     
      亀ヶ谷坂切通しの他にも、鎌倉には七口の切通しがあります。仮粧坂・極楽寺坂・大仏坂切通しは何度も歩いています。名越と朝比奈の切通しは、一昨年の引退記念として歩くことができました。
     しかし、巨福呂坂切通しは、舗装されている方の道路は徒歩や車や自転車でも通行してしています。でも、その一部が残されていると聞いています旧巨福呂坂切通しは、いつでも歩けると思っているのでいまだに歩いたことがないのです。

     この他にも高野・釈迦堂口・谷戸坂などにも切通しがありますが、釈迦堂口切通しについては光明寺まで自転車散歩をした時についでに回ってみましたが、落石の危険があるとかで通行禁止となっていました。仕方なく離れた位置から切通しの隧道を覗いただけで帰ってきました。

     ひとりで歩く気楽さからか、切通しの崖にそっと手を触れてみました。
     そこに通りかかったご婦人が、「すみません。このあたりに大田水穂さんのお家があるそうですが」と声をかけるのです。
     そう言われてみれば、この夏に自転車を押してこの亀ヶ谷の切通しを反対側から越えた時に、崖の上につづく細い道の先に垣根があって、「潮音」と表札のかかった家のあったことを思い出しました。
     「その先を下ったところの右側が太田さんの家だと思います」と連れ立って歩き出します。
     
     ご婦人たちは、うた(和歌)仲間で、今日は鎌倉の散策と吉屋信子記念館の見学が目的だそうです。
     太田水穂は、大正4年に歌誌「潮音」を主宰して創刊しました。その後、安部能成・幸田露伴・和辻哲郎たちと「芭蕉研究会」を結成して、その芭蕉の文芸を短歌の世界に取り込もうとする活動を行ったのでありました。

     この鎌倉には、昭和9年に扇ガ谷に山荘を構えましたが、昭和14年になって家族全員が鎌倉に引っ越してきました。その後、この鎌倉を創作活動の拠点とて大いに活躍しました。
     今日は小学生につられて横須賀線際の道を歩いてきましたので、お参りすることができなかった東慶寺の墓所には西田幾多郎・鈴木大拙・高見順・小林秀雄・和辻哲郎などの人たち一緒に眠っています。

     ご婦人の一人が、太田水穂の歌を何首か紹介してくれましたが、   
      立山とおもふ大嶺の峰明り青雲のうへにいまだ見えつつ (「鷺・鵜」 越中にて)
    の一首を書きとめました。

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     立冬に歩いた「ムーミンパパの湘南散歩」なのに、今日はもう師走の一日です。
     他の記事も、遅れ遅れになっていますから、これらの記事が終わるころにはおそらく正月を迎えていることでしょう。

     ※ この記事と関連のある、「写真6 鎌倉亀ヶ谷坂切通し」を参照ください。

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