「今日の富士山」 09・NO9 [今日の富士山]
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今日の富士山 2009:3月 NO9
平成21年3月21日(土)~平成21年3月31日(火)
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- 平成21年3月21日(土)
昨夜、町内会の懇親会があった。
それにしても近ごろは自己抑制が利かなくなって、ついつい我儘な言動をなしてしまうことが多い。反省をしないというわけでもないのだが、酒の上のできごとはすぐに同じ過ちを繰り返してしまうものである。
これで私も、すっかり「遊行上戸」になり切ったのであろうか・・・。
そんなことのあった翌朝の富士を、ことさらに眩しく感じている。
妻が「友人にプレゼントしたいので・・・」と頼まれていた仏像、「月に祈るわらべ地蔵」が完成した。
今日、さしあげるという。
これも近ごろのことであるが、ただ時間をかけただけの仏像でも、相手の方に喜んでもらえるということを素直に喜べる自分がいた。
なぜか江の島に行きたくなった。にもかかわらず弁天橋の袂から砂地に下りた。連休2日目の人混みをおそれたからである。
地下道の浮世絵「富岳百景」を撮って、江の島の今昔を並べてみた。
春雨の江の島が見えて晴れてくる
この荻原井泉水の句を読んでいると、自分でも俳句をひねってみたくなるから不思議である。
抱かれし海のひかりに驚きぬ見なれたはずの江の島の春
係留の綱を解かれて春彼岸遊覧船の出入り賑わう
少年たちが投げ釣りをしていた。
そこに大きな荷物を背負って歩き出そうとする人がいた。山登りのような荷物にはカヤックが入っているのだという。さらに尋ねると、「組み立て式で、約40万円くらいで買えます」という。これは聞きもしなかったが、「これを背負って四国の四万十川までゆくこともあります」という。
江の島 北原白秋
ああ、春その嶋には
老木の椿が咲き盛ってゐた。
母と子とはそれを仰ぎ仰ぎ、
とある岩根に腰をおろした。
あ、鶯が啼いてゐる。
母上もお年よられた、
わたしももう四十に真近い。
母上は疲れたとて足をさすられ、
子のわたしも足をさすってゐた。
『歌ができましたよ、ありがたい』と私は云った。
『おお、さうかん、わたしもありがたか』
二人はうっとりと見上げてゐた。
紅い椿の花に日があたった。
この白秋の詩も、「こんな素直な気持ちを詩にできたら・・・」と思わせる。これも詩の舞台が江の島だからだろうと考えながら、春の日にきらきらと輝くさざなみの海をながめていた。
鵠沼海岸の「海風のテラス」でも、しばらく江の島をながめていた。
来る時は境川を下って来たので帰りは引地川で戻ろうと思っていた。途中の長久保公園に立ち寄るとハナモモが売られていた。
- 平成21年3月22日(日)
昼過ぎから雨になるという。
雨だけではない。まるで暴風雨のようで傘もさせないほどであった。
その中を仏像彫刻の稽古に出かけたのである。
真直ぐに歩みかなわぬ強風に傘をすぼめて春雨に濡れ
絶え間なく川面の水の波立ちて桜つぼみも風に逆らう
からだごと弄ばるるビル風に買いし花鉢両手で庇う - 平成21年3月23日(月)
吉田茂は富士を眺めたいがために、大工が「西日が差す」と反対するのも聞かずに、上階に大窓を抜いたという。
その臨終の日も、西の窓に寄って霊峰富士を瞼に焼き付けていたという。
大磯の旧吉田茂邸が昨日の朝に全焼した。
「旧モーガン邸」「旧住友家俣野別邸」につづいて、3度目のショックである。
旧吉田邸は縁あって10数年前に拝見することができた。その日は屋敷の隅々までゆっくり見学させていただいたが、なぜかあの執務室のホットラインの黒電話だけが印象に残っている。
あの「黒電話」も焼けてしまったのだろうか・・・。
その吉田茂の愛した富士が、今朝はことさらに美しい。
パソコンに向かっていると、「今日は侍ジャパンを見ないのですか・・・」と妻がいう。
侍ジャパンが「9対4」でアメリカに勝ったのを見とどけてから、愛犬チワワと自転車散歩に出かけた。
鵠沼海岸の平和像の鳩には、いつもいろいろな種類の鳥がとまっている。だがカメラを向けるとすぐに飛び去ってしまう。ようやく撮れたと思ったら、なんとなんと今日の鳥はカラスであった。
風は強く波もあるが、ビーチバレーコートに若者たちが戻って来た。
春休みがはじまったからであろうか、片瀬海岸までまるでごま塩を撒いたようにサーファーたちがいる。
若波の声のはじける砂浜にバレーボールの空高く舞う
砕け落つ波に遊ばるサーファーを凝視している外国の人
陽だまりの草地のゲンゲヨモギ草人に知られず春ぞ迎えん
江の島は、昭和39年の東京オリンピックのヨット競技開催地であった。
ここはセンタープロムナードの聖火台である。あまり観光客に知られてはいないのだろう。この両側にヨットの見られるプロムナードには人が少ない。
この黒ずくめの海賊船風ヨットが好きだ。しかし、手入れをしているのを何度か見たが、帆を揚げて海を走るのをまだ見たことがない。
プロムナードを左から右に一周して、陽だまりの草地をのぞくともうゲンゲの花が咲いていた。ヨモギも摘めそうに生き生きと青々していた。
ここはもうすっかり春である。
- 平成21年3月24日(火)
外輪山が見えている。不思議に富士の周囲だけが明るかった。
WBCで侍ジャパンは、「5対3」で韓国に勝って連続優勝を果たした。
野球の終ったのが3時近くだったので、今日は遠くには行けない。
それでも鎌倉をめざした。境川の桜は川風が冷たいからか例年開花が遅い。この桜の枝に4、5輪が咲いているのだから今日が開花日だろう。
四五輪の震えて咲ける川沿いの桜の花に浮き浮きとして
咲き初めし花の写真撮る吾と媼も共にのぞき見るなり
人もなき赤き夕陽に照らされてここに寺分茅葺の門 (大慶寺)
草臥れて家路をいそぐ道すがら見知った寺の門前に立つ (等覚寺)
やわらかな春の日差しにやわらかにヤハズエンドウ花言葉
赤き服着たる女のパン屑にどこからとなく鳥たちの群れ
しばらくはこの夕焼けと共に居よ桜遅らす寒波戻る日
手広の桜は、もう7分咲きであった。
鎌倉をめざしながら、モノレールが見えた深沢で挫折した。
横道に逸れて曲がりくねった寺分地区の道を楽しんでいると、逆光の中に茅葺屋根の山門が見えた。それが大慶寺であった。
そろそろ帰ろうとした道沿いに、やはり茅葺の山門の等覚寺があった。するとここはもう梶原である。
時計を見て、約束の5時までに帰れるかどうかが不安になった。
これも道沿の草地に、天麩羅にしたらやわらかくて美味しそうな「カラスノエンドウ」が咲きはじめていた。慌てて1枚撮って道を急いだ。
ただし、カラスノエンドウの学名は「ヤハギエンドウ」である。この花には、「絆・小さな恋人・永遠の悲しみ・喜びと訪れ」などと多くの花言葉があるのはなぜだろう。
境川に戻ると紅いウインドブレーカーを着た自転車の女性が追い抜いて行った。
10数メートル先で、その女性が自転車から降りるとどこからともなくいろいろな鳥が集まってきた。空にはトンビが何羽も低空飛行をはじめた。女性は右手のタオルを振り回してトビを追い払い、トビが逃れた隙に川面にパンを投げ与えている。
それはそれは鵜飼のような見事な妙技であった。
夕食後に夕焼けの中に黒い富士が見えていた。
- 平成21年3月25日(水)
富士が見えないから朝の食事に出かける鳥を狙ったが、ようやく2羽を撮り込むことができた。
仏像彫刻の用事で出かけた。
その道沿いの境川をのぞくと、いつもの川中の石の上で川鵜が羽を乾かしていたが、カメラを構えると身構えた。
川中の石を住処とする川鵜こびりついたる糞の白さよ
目の黒きウサギを語る女(ひと)たちのとりとめもなく果てることなし
このウサギは放し飼いである。
いつもは近所の女性たちの運ぶ野菜を食べているが、時々放浪の旅にでる。餌やりの女性が、「ラビちゃんは2週間ほど川下あたりを放浪していました」という。
この1年あまり自由な生活を満喫しているようである。犬も猫もトンビにも負けないだけの生活の智慧を身につけているのだという。
餌やりの女性が、「手を上から出すと逃げますが、下から出すと近づいてきますよ」と教えてくださる。
皆さんは、まるであのイチローのことを話題にした時のように饒舌なのである。
これから昔の同僚たちとの懇親会がある。 - 平成21年3月26日(木)
最終の片瀬江ノ島行きの電車に乗った。幹事が私へのサプライズとかで、昔懇意にしていた人を呼んでくれたのである。だから嬉しくなってついつい話し込んだからである。
太陽が出てきたから、やがて富士も見えるだろう。
今日は、座間の知人宅まで「聖徳太子孝養像」をお届けする約束になっている。
これも不思議なことだが、最近になって電車で出かけることが嫌ではなくなってきている。空いた電車に腰を掛けて、SONYのウォークマンを聞いているといつの間にかウトウトしてしまう。これが極楽なのである。
なにせんとすべきことどもあるでなし電車の軋み子守唄とて
老人に席を譲りし若者の顔の暗さを気に留めている
乗り降りの電車の中のことどももやがて景色となりて溶け行く
帰りは車で送ってもらったが、「今朝雪が降りませんでしたか・・・」と奥さんがおっしゃる。
なんと座間では今朝雪が降ったらしい。 - 平成21年3月27日(金)
写真では見ずらいが、かすかに富士が見えている。
鎌倉市役所近くに、碑と案内板が建てられたとの新聞記事があった。
そこに行ってみようと出かけたが、あまりの胸の苦しさで断念した。よぼよぼと歩いていると幼児を連れたおばあさんに追い抜かれた。
腰越なら、もし疲れても江ノ電で帰れると歩き出した。表通りをよたよた歩いては人に迷惑だろうと境川沿いの遊歩道に出た。
また苦しくなって川沿いのフェンスに寄りかかっていたら、なんと水面に自分の影が映っていた。
なんとか歩けると片瀬の諏訪神社まで来た。いつもなら通り過ぎるところではあるがベンチでもないかと寄り込んだ。
神社の由緒書きにも「皇紀2600年」の文字があり、この大鳥居の扁額も昭和15年に作られたものであるという。
ともに私の生まれた年であった。
もしかしたら、死ねる時にも今まで生きてきたことどもが走馬灯のように思い出されるのだろうか・・・。自覚はないものの、なんとなく一歩近づいた気がする。
この道の先に光の射すでなしこの苦しさに耐えてまた行く
頑迷に医師の言葉に逆ろうてついにわが身に異変兆せる
ようやく、いつもの倍近くかかって龍口寺に着いた。もうこれ以上先に行く気にもなれない。
「日蓮大聖人真筆」と伝えられる碑の前で立ち止まった。
龍口寺の山門を潜って、この女性的な美しい常夜燈の前で立ち止まった。
いつもはながめてそのまま中門を潜るのだが、今日はそれ以上先に行けそうもないので、この常夜燈はいつ頃の作であろうかと近づいてみた。
「宗祖御法難 六百五十回報恩 大正九年九月十二日 東京市芝区高輪南町」とあり、女性名が刻んであった。
なるほど女性的な美しさは奉納者が女性であったからだ。
いつも復路は呼吸が楽くになるのだが、今日は一向によくならない。
やはりよたよたと倍の時間をかけて市民ホールの前に来た。このベニ色の濃い桜に近づいて、ベンチで少し休もうとしたが先客がいた。
若い男女が缶ビールでお花見をしているようであった。
今朝のNHKテレビで中西進先生が、「日本人が桜を愛するようになったのは平安時代からである。桜は散りぎわがよいから日本人に好かれるというのは間違いである」というようなお話しをされていた。
「今日の富士山」を書いていることを知っている妻が、「夕焼けの富士山がみえますよ」と声を掛けてくる。
このところ朝よりも夕方の方が富士の雄姿を眺めることができる。
さて新しき仲間から、ふぐ料理屋に案内するとの誘いがあった。その主人は甲州の出でカボチャぼうとうの美味い店だという。 - 平成21年3月28日(土)
やはり今朝も富士は見えない。
今日こそ鎌倉をめざすと出かけたが、程なくしてまた胸が苦しくなった。ビックカメラに寄りこんで見るともなくパソコンを見ていた。目ざとい女店員が近づいて来たので慌てて外に出た。今度は釣具屋のウインドーをのぞいていたが、どうしても店の中には入れなかった。
藤沢鎌倉線で手広の交差点を過ぎ、深沢のモノレール線下の隧道を出たところでどうにも動けなくなった。
しばらく佇んでいたが、その隧道の石垣に茶花の白山吹の咲いているのが目にとまった。
そうこうしていたが、苦しさが一向によくなるとも思えないので、ここからバスで帰ることにした。
風吹いてかすかにゆれる吾が命白山吹の花の傷みに
めぐり来る季節忘れじ山桜散り際のころにまた訪ねん
寒暖の身に覚えなく眼前の御幣のゆれに風吹くを見る
ことさらにむなしさもなき今日の日を茜の空を鳥の去りゆく
とぼとぼ歩いて次のバス停に着いた。しばらくしてからバスが来たが、私がどこ行きかを確かめているうちになんと通過してしまったのである。
次のバスが来るまで待つのも癪で、またとぼとぼ歩き出した。すると前方の川名あたりに、ほぼ満開の桜が見えてきた。
このあたりの染井吉野は数日前に開花したものの、この寒さでまた閉じてしまった。
桜の種類のことは数種しか知らないが、これはすでに葉が出ているから山桜であろう。白いビルをバックに、道路際で淋しく、だが目立って咲いているのがよい。
そのまま次の御霊神社前のバス停まで来てしまった。
少し欲が出て、その角をまがり数百メートル歩いて御霊神社前に出た。しかし、その石段を上って参拝する気にはなれず、鳥居の前で写真を1枚だけ撮って表通りに戻った。
ますます息苦しくなるようである。おそらく狭心症が再発したのであろう。しかし、その再発した原因はわからない。
富士の頂き近くに太陽が落ちて行く。
あと数日すれば、ダイヤモンド富士が見えるかも知れない。
- 平成21年3月29日(日)
午前8時が過ぎたころ、富士のあたりがかすんできた。
今日も鎌倉をめざしたが断念した。
家を出て200mも歩かないのに息苦しさがまた出た。昨日とも一昨日とも異なる苦しさで、もう先に行くどころかしゃがんでしまいたいぐらいであった。
近くのダイエーによたよたと入り込んで、いつもは老人たちの専用席となっているベンチの隅に腰かけた。だが一向によくなる気配がない。出掛けに妻が、「舌下錠を持っていってください」と言ったことを思い出だした。
その薬を取り出して舌下で転がしているとだいぶ楽になってきた。
人声も徐々に遠くに流されて吾も不思議と流されて行く
人はみな人に知られず人混みを掻き分けて行き虚しくもなる
人混みに幸も不孝も流されてなぜか全てが漠然として
このまま死ぬほどでもないと立ち上がり表に出た。しかし、そんなに歩かないのにまた苦しくなった。これは重症だと自分でも分かった。そこからゆっくり戻って、また昨日のビックカメラに寄りこんだ。いざの時であっても、人がたくさんいる場所の方がよいと思ったからでもあった。
そんな計算ができる内はまだ死なないだろうと、ゆっくりゆっくり大型テレビ売り場からオーディオ売り場、2階、3階、4階と場所を移してふらふらと歩き回った。
買い物客は、そんな私のことなんか誰も気にしているようすもなかった。
約1時間が過ぎた。しかし、これから遠くまで出かける体力も気力も失せていた。
しかたなく家に向かって歩きはじめたが、いつもの道が遠く感じられた。その時、歩行者天国のはるか前方に知り合いの人の顔が見えた。しかし、もう隠れることのできない距離であった。
その人が驚いたような表情で私を凝視するのは、それほどひどい顔をしていたのだろう。
なんとか一言二言、言い訳して泳ぐようにその場を離れた。
すべてを蓋い尽くすような雲は太陽の光を飲み込んでいた。
黄泉の国も、こんなに暗いのであろうか・・・。
- 平成21年3月30日(月)
見事に晴れたが、富士はぼんやり。
主治医に頼んで薬を出してもらった。
我儘な患者のいうことにも言いなりのお医者さんに感謝した。
これでよしと愛犬チワワと自転車散歩に出かけたが、胸の苦しさはすぐ襲ってきた。歩くより遅い速度で自転車を漕ぐ。遠くに行くのが不安だから近場をグルグル回ってみた。
少し気分がよくなったので、辻堂までならと八松山明王院宝珠寺に向かった。この寺は俗に北の寺と呼ばれて、
寺の名の珠の光りはくもらめや八もとの松のやちよふるとも
の御詠歌を伝えている。
その宝珠寺を南に下ると、南の寺と呼ばれる海龍山観音院宝泉寺がある。その隣に諏訪神社が並び建っている。
このあたりはかつて辻となっており、古く宝泉寺は「辻御堂」と呼ばれ、辻堂の名の起こりとも伝えられている。
一夜寝て心の月をすましみよのりのいづみのかげはくもらじ
との御詠歌が伝えられているが、この界隈の家並みは新しいのになぜか道筋に古さを感じて、吹く風までが江戸の昔を思い出させるのである。
諏訪神社の御詠歌は、
水上は諏訪のかみらもひるよるにたからのいづみくめどつきせぬ
と伝えられる。
帰り道の一本松あたりで、すずらんによく似た可憐な花が咲いていた。
このところ気弱になったのか、ことさらに可憐な花が美しく感じられるのである。
花だけではない。
見慣れた夕陽も見ていて飽きることがない。時には日没まで、30分以上も見つづけることもある。それもクッキリと見えた日の富士の夕焼けだけを美しく感じてはいないようである。
そうなんだ。
数日前までは富士の左側に没していた太陽が、今日はすでに右側に沈んでいるのであった。 - 平成21年3月31日(火)
やはり朝は、その姿を見せてはくれない。
珍しく妻が、「平塚の不動院に行って見たい」という。
大磯に知人の店が3店見つかったので、そこに案内がてら出かけてみた。
境内に入ると、大野恵造文学碑が山内にあるというので探したが見つからなかった。浅学にして、この人のことを知らなかったが、「漢体詩選」を著した人であるという。
実は、その前に車から降りようとしてまた発作が起こったのであった。舌下錠を口に含んで10分ほどすると楽になった。妻はすぐに帰り医者に行くべきだというが、せっかくだからと坂道を登った。
北かなひみ法の跡を尋ぬれば春の桜に秋はもみぢ葉
古刹である。
山内には石仏のよいものが置かれてあり、ここが古い寺であることが知れた。こんな田舎の不動院が、古くから多くの信仰に守られて、花の寺として残されたことにしみじみと感じたのであった。
御堂の後ろの枝垂桜はあと数日もすれば、豪華とはいえないだろうがはにかみつつ咲きそうであった。
堂前の染井吉野も、やはり数日すれば見事に咲きそろうであろう。
今を盛りのミツマタと桜、それにギボシの御堂の取り合わせも絵になる。
住職の丹精したものであろうか、堂前の砂地には、これはドイツすみれであろうか濃い紫の花が咲きはじめていた。
妻が、「これ可愛いね・・・」という。
これを彫ってみたら・・・という意味かも知れないと思いながら写真に撮っておいた。
だが、この体調では果たして彫ることができるであろうか・・・と一抹の不安が過ぎる。
不気味な暗雲が富士を押さえつけていた。
2009-04-01 09:26
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