SSブログ

ことばの不思議さについて [つれづれの記]

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ことばの不思議さについて

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  •  紀行文「そうだ京都に行こう」の最終回を書き終えました。

     書き終わった感想を書くアホもいないでしょうが、あえて一言書かせてもらいます。
     正直、あんなものを書くのは苦痛でした。書きはじめは「つれづれの記」のつもりでいましたから、いつものように気楽に書いていました。
     
     ところが、それを紀行文として書こうと思いはじめた時から「書かなくてはいけない」、途中まで進んだ時には「最後まで書かなくてはいけない」というような強迫観念みたいなものに襲われました。

     そのうえ「チョッといい文章を書いてみよう」と思ったことから、苦痛がともないました。ですから書き終わった時には、ホッとしたというよりも、いっそのこと「削除してしまえ」と真剣に考えました。
     
     だがアホな父親が、一度だけは娘のことを書いておきたいと思っていたことは事実です。おちゃらけて書いた文章の裏側から、隠しておいた事実がポロリと顔を出してしまうのはいたし方のないことですが、あの種の内容では、虚構を駆使してものを書く楽しみも面白味もないのです。

     それどころか、嘘までが事実みたいになって読まれてしまうのではないかと思ってしまうのです。でも、それこそが虚構によって真実を伝えるという表現手法なのでしょうが、私のような素人からすればそんな高尚な表現手法を駆使できるはずもありません。

     まあ、ここではアホな父親の懺悔と遺言なんだとお笑いくださって、私としてはいつもの気楽な「つれづれの記」に戻らせていただきたいと思います。

     数日前に、また都内の知人S氏が藤沢に来られました。そのS氏とは、以前に「ホタルのひかり」に登場していただいた人物です。もしもこのブログをご当人に読まれたら困るのですが、一言でいえばユニークな方です。私もユニークな生き方をして来た一人ですから、類は友を呼ぶといいますか、ずいぶんと多くのユニークな方とのおつき合いをさせてもらいました。
     しかし、その人はそのユニークという私の分類の、どの範疇にも属さないほどのユニークな思考と行動の持ち主なのです。

     ところで、この「ユニーク」という英語は実に便利な言葉です。もしも、このユニークを日本語で「あの人は変わり者です」と書いたとしますと、読む人にとんでもない誤解を与え悪評をしたことになってしまいます。
     だがユニークと書くことによって、その書かれた人物が何となく曖昧となって、柔らか味をおびた好人物に変わってしまうという働きがあるのです。
     
     仮にある人物の推薦文を作成しようとするときに、「自分の言ったことを押し通し、わがままで人との協調性に欠ける」と書かねばならない人物を、そのまま書いたのでは推薦文どころか批判文になってしまいます。

     そこで「主体性があり、自己主張があって、自分の信ずる道を最後まで完遂する」と書き換えたとすると、それは素晴らしい人物評価となります。つまり、ここでは書き換えが、正しいとか正しくないとかということを問題にしているのではありません。

     同じ状況下であっても見る人によっては異なって見えたり、異なった状況下であったとしても見る人によっては同じであったりすることがあります。
     ここでは「変わり者」という日本語を、単純に「ユニーク」という英語に置き換る作業によって起こる働きは、これと同程度かそれ以上に言葉の魔力が発揮されたのだと考えるのです。

     元私の同僚で、会話の中に外国語を多用するT氏がおりました。その人物に対しての周囲の人たちの評価は「教養のある人」と「きざで嫌らしい人」という2通りに分かれていました。
     そういう意味では、最近テレビやラジオで活躍しているルー大柴とかいう人の「ルー語(?)」とかも、その範疇に入るのかも知れません。

     でも、そのT氏は私が出合った昭和40年代以前から、「英語混ざり語」(私の造語です)を駆使していましたから、ルー大柴氏よりもはるかに先輩ということになります。
     でも、そのT氏の名誉のために言っておきますが、その人は温厚篤実で学問研究に熱心で、深い洞察力をお持ちの素晴らしい人物なのです。
     
     でも私は、「英語混ざり語」が前々から嫌いでしたから、黙って聞いておけばよいものを、「わざわざ外国語に置き換えずに、日本語で喋ったらどうですか」と、ついつい棘のある言葉をT氏にあびせてしまったのです。

     そんな失礼な言葉で、相手に不快な思いをさせるようでは、私の性格の方がはるかに嫌らしいと思うでしょう。だがそう思われることを認めたうえで、私には英語の嫌いなわけがあるのです。

     さらに言えば、嫌いというより苦手と言ったほうが適切です。私は長年、その言い訳として「ぼくの親父は戦争で殺された。その敵国の言葉をどうして喋れるんだ」と半分茶化して言いつづけて来ました。

     そんな言葉で自分を正当化したり、誤魔化していることを聞いた人たちは先刻承知でした。だが、それを否定することで結果的に死んだ親父を冒涜することになりはしないかと、思ったかどうかは知りませんが、大体の人は黙っていました。
     私は、それをよいことにしてますます英語を勉強しなくなり、嫌いになり、苦手になっていったのです。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

     いつものように、話題がどんどん逸れていることは充分心得ております。ですから、そろそろ今日の「落ち」に強引に持ってゆかなくてはなりません。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     
     いろんな例え話でここまで遊んできましたが、言葉の持つ働きと不思議さについては、前々から気にしていましたし考えてもいました。
     でも、そのことを真剣に調査したり、勉強したり、研究したりしたことはありません。

     これからも気にはなるでしょうが、野暮用が多すぎてもう勉強する時間はありません。今回はたまたま「そうだ京都に行こう」を書いたことで、そんなことを思い出しましたのでつれづれに書いてみただけです。
     


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0