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江の島道 【5】  [江の島道]


  江の島道
 
             
            -わが街「江の島道」が見えてきたー  (NO5)

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  • 江 の 島
     
    江の島道 
     「江の島道」とは、東海道藤沢宿の大鋸橋(遊行寺橋)から江の島へ至る道のことで、約1里の行程である。

     私たちは、実際に江の島道を歩きながら、当時(江戸時代)のことをあれこれと想像してみた。
     例えば境川(藤沢で柏尾川と合流するが、そこから下流を「片瀬川」と呼んでいたようである)の流れ一つ取っても、現在とは大きく異なり流れは蛇行していたようである。

    その上、たびたびの氾濫を繰り返す暴れ川でもあったようだ。
     また石上(砥上)の渡船場から、境川を小船で渡らなくてはならなかった不便さもあり、たかが4キロの江の島道ではあったが、参拝の人たちにとっては、それなりの困難や旅のドラマも生まれたことであろう。
     
     当時の人々は、片瀬山付近の麓を歩いて龍口寺方面に向かい、今の江ノ電江の島駅辺りから片瀬海岸に出て、洲鼻(すはな)と呼ばれていた砂嘴(さし)から、また小船で江の島に渡ったのであろう。
     確認の意味で付け加えておくと、この江の島道は大山詣での人たちが、その帰りに江の島弁財天を参詣する道であったと同時に、江の島を参拝した人たちが大山詣でに向う道でもあったのだ。
     

    弁財天信仰
     江の島が書物に登場するのは、中世以降(「吾妻鏡」)のことであるという。

     源頼朝は、武家集団による鎌倉幕府を開いたが、この東国を完全に掌握し、武士による新しき時代を構築するためには、京都貴族と気脈を通じている奥州平泉の藤原氏の行動は無視できなかった。
     こんなところにも義経の悲劇の要因があったのかも知れないと、歴史に隠されている矛盾に思いを馳せた。しかし、ここでの寄り道はできない。
     
     さて、頼朝は1182年(寿永3年)藤原氏調伏のための戦勝祈願をなさんと、文覚上人をして、この江の島に弁才天を勧請したと記録されている。 この弁才天とは、八本の腕(八臂)に武器を持った戦の神のことである。
     ところが、わが国では吉祥天と混同され福徳賦与の神の弁財天と称され、七福神として信仰されてきたのである。
     
     前節で、江の島の弁財天が、広く庶民層の信仰を集めるまでの過程には、近世中期以降における貨幣経済の発達・生産力の向上が大きな要素になっていることについて述べた。
     さらにこの江戸という社会秩序の中で、底力をつけた庶民たちによって、物見遊山への爆発的な流行が生み出されたことも述べた。

     このように、世界に類のない江戸文化が形成され発展した陰には、「弁才」を「弁財」に転換して、何の躊躇もなかったように見える江戸庶民たちのエネルギーが、その原動力ではなかったかと考えてみたいのである。
     いずれにしても、そこに悪意があったとはいえないまでも、この一つの「捻じ曲げ現象」で、江戸の人々を3泊4日の物見遊山に駆り立てたのである。

     私は、ここにも「御師」や「江の島島内三宮」の人々のしたたかな思惑があったのではないかと邪推して、少し愉快になったのである。
     
     私たちは、わずか4キロの江の島道について、ああでもない、こうでもないと議論し学習してきた。ほんの数ヶ月の学習ではあったが、議論を重ねてゆくうちに多くのことを発見し教えられた。
     特に「江の島の繁栄」ということに視点を絞って考察したときには、大げさかも知れないが「江戸という封建諸規制の中で阻害されてきた人々の暮し」が少し見えたような気がした。
     おそらく江戸庶民は、その疎外感からの自己解決の一つの手段として、神社・仏閣の参拝に突き動かされていったのではないかと推論した。
     
     例えば「縁日・祭礼などの雑踏はおびただしい人の山で、文化年間に深川八幡のお祭りの群集があまりに多数つめかけたので、永代橋がくずれ落ち、そのため多くの水死者を出したほどである」(「日本文学の歴史8」角川書店)と書かれていることからみても、江戸の庶民が雪崩のように神社・仏閣の参拝に押しかけた様子がわかる。
     しかし、疎外され圧迫されていた人々の不満解消のための、一つの手段であった参拝の陰には、幕府の庶民操縦術がみてとれるのである。

     つまり、庶民の神社・仏閣への参詣熱を、一種のガス抜きとして利用していたのではないかと考えられるのである。
     いやむしろ、そのために幕府が積極的に参詣熱を煽ったのではないかとさえ考えられる。これも庶民の褻(普段の生活)の日の憂さを、祭り(晴れの日)という熱狂の中に解消させ、無礼講という作法を生み出した支配層の手法と同じ発想があったのではないかと思うのである。
     
     また「なかでも富士・成田・江の島・大山・御岳などへの参拝熱は盛んで、富士講とか成田講などという信仰集団が組織され、大勢つれだって出かけていった。
     信仰というよりは、むしろレクリエーションの意味が大きかった」(「前出書」)とあり、お伊勢参り(お蔭参り)・抜け参りによって、熱狂的な参詣熱を触発された江戸庶民は、もっと手近にある関東エリアにも、信仰・遊興の地を開発していったことがわかる。
     これはもう、江戸という時代の一種の社会現象でもあった。
     
     以上のことから、私たちは、この爆発的な参詣熱の陰に、疎外されて生きてきた人たちの悲しみをみたのである。
     かつては、歴史の表舞台で華々しく活躍する人々の生き様が興味深く面白いと思っていた。しかし、歴史の裏側で疎外され、呻吟している人々のいることにも思いを馳せない限り、正しく歴史を読み解くことはできないのではないかと思いはじめたのである。

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