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江の島道 【4】  [江の島道]


  江の島道
 

            -わが街「江の島道」が見えてきたー  (NO4)

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  • 明治時代 
     神仏分離により、大山寺が廃止されて「阿夫利神社下社」となり、女坂の途中に移されて「大山不動尊(関東3大不動)として、信仰は今日に受け継がれている。
     
     だが、東京大学の傍の願行寺の門前にある「大山不動尊同木同作出世不動尊」の碑は、商人や職人たちが金を出し合って建てたものであること。 
     「江戸を発ち先ずは一服茶屋どころ」と大山に向う旅人が一服したという三軒茶屋の賑わい、橋本から大山街道に入り田名(相模原市)の渡しを小船で渡り(相模川)、大山参りを済ませた帰りに再び田名の宿場に一泊し、精進落としを楽しんだことなどを知る人はもういない。
     
     偶然のことであるが、今朝(平成18年8月1日)の「朝日新聞湘南版」には、

     「大山詣での乗客や農産物を運ぶ」のタイトルで「二宮町と秦野市を結ぶ9,6キロに大山詣での乗客などを目当てに軽便鉄道が建設されたのはちょうど100年前。当時、二宮町では大山詣での客を泊める旅館が立ち並び、貨物ホームには葉タバコ、落花生、雑穀などが積まれ、活気にあふれていたという」

    という記事が載っていた。

     これは二宮町生涯学習センターの「パネル展」開催の案内であった。
     この記事を読んでいるうちに、当時は通称「けいびん」と呼ばれていた湘南馬車鉄道と賑やかに大山詣でをする人々の群れが、歴史の彼方に走り去り消え去って行くのを見たような気がしたのである。
     
     これも余談になるが、大山本社のご神体が石剣であることから、多くは木太刀に大願成就の4文字を書いて収め、翌年には先年に収めた太刀にかえ、それを持ち帰って護符にしたという。
     その太刀は大きなものほど誇りとし、なかには3間半の太刀を、50人ほどの若者に担がせて奉納したという下野屋十右衛門という旦那もいたということである。

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