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そうだ京都に行こう 【2】  [そうだ京都に行こう]

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  そうだ京都に行こう 
         
(その2 祇園花見小路まで)

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  •  高瀬川は、わずか4間ほどの小さな流れです。 
     
     両岸には柳をはじめとした木々が鬱蒼と繁り、川べりの人たちの植えた花々が咲いています。緑陰に守られてか、この暑い京都の川べりにはまだ紫陽花が色を残してうなだれています。
     誰と歩いたのかは知らないが、娘は慣れた足取りですたすたと歩きます。そしてふと立ち止まり、川沿いにある喫茶店のコーヒーの味を懐かしんでいる様子なのです。
     
     ここから上流にある「二条の一之舟入りの高瀬舟」を見たのは、もう20年以上も前のことでした。
     あの時は「高瀬舟」の主人公喜助が護送の同心に心情を吐露する場面について、みんなで熱い議論を戦わせながら歩いたものでした。

     こんな小さな川が京都から伏見までもつづき、江戸初期からの水運の要であったとはとても信じられないのです。
     あの喜助の心情を語った後のすがすがしい気分も、この高瀬川の流れに乗って伏見まで流されて行ったことでしょう。

     高瀬川のゆるやかな曲がりに沿って歩き、やがて五条通りの見えるところまで来ました。右側の古びたビルと町家の間に鴨川の流れが垣間見えます。
     娘は無言のまま10mほど歩いて鴨川の堤防の上に出ました。その脇には古くはあるが、きれいに清掃された小さな祠がありました。
     
     賽銭箱にコインを落として、そっと祈っています。おそらく父親の私にも言えない思い出もあろうかと、なるべく娘を見ないようにして目を鴨川に戻します。
     加茂の河原の青鷺が、彫像のように動かないのです。

     五条通りに出て、鴨川に架かる五条大橋をさらに東に向かいます。300mほど歩いて左折し、大和大路通りを北に向かいます。
     大路にしては狭い下町風の道をのんびり歩いていますと、いつしかここの住人になったような気分になりまして、両側の家々のたたずまいまでもが何となく懐かしいのです。

     京都では古いものの中にモダンが調和しています。よく磨かれた窓格子の下で、着物姿の老婆が真紅のハイビスカスに水をやっています。
     小さな鉢からはみ出しそうに咲いている花をみて、「きれい」と娘が声をかけます。

     私が「よく手入れするから、いい花が咲く」と歌うように言います。それが聞こえたのか老婆は、深く腰をかがめて「ありがとうございます」と嬉しそうに語りかけます。
     私は老婆の微笑みに会釈を返して、少し歩いてもう一度振り返ると、その老婆の家の軒下だけが妙に明るく感じられたのでした。

     私たちは、いよいよ地元の住人になったような気分になって歩きます。
     すると右手に六波羅蜜寺の山門が見えました。ああ、ここが空也上人の六波羅蜜寺かと近づいて、さては鎌倉時代の六波羅探題はどの辺りにあったのかと興味津々です。

     人の気配がないので振り返ると、娘は先ほどの場所から動かないのです。さては、この寺にはあまり興味がないのかと合点して戻りさらに北に進みます。

     すると町家と町家の陰に隠れるようにして小さな山門がありました。覗いてみると1間ほどの参道が、ずうっと奥までつづいています。
     暗い通路には水がまかれてしっとりとしています。昼前の時間だというのに、またたく灯明の明かりの数々が夕暮れのようなたたずまいを呈しているのです。娘は、その灯明に導かれでもしたかのように参道を奥に向かいます。

     この街の人々の毎朝毎晩の参拝で磨り減った石畳を、私も娘について入ります。ここの空間も善男善女の日々の祈りが、あたりの空気を清浄なものとしています。

     参道脇の暗がりでは小さなひかりに照らされて、ご自分の病の快癒を祈るのか姑の病を祈るのか、それとも子どもの幸せを祈るのかは知らないが、ひとりのご婦人が仏像を丁寧に拭い清めているのです。

     時間がたつのも忘れて、無言の私たちは、しばし無心になることができました。
     寺の名も知らずに立ち去りましたが、後になって調べてみますと、どうやら、ここは「寿延寺」ではないかと思うのです。

     その寿延寺を後にして、大和大路通りを北に数100メートル進みます。今度は大きな建仁寺の山門を入ります。

     ここまで来てようやく思い出したことがありました。
     私の今回の京都旅行の目的の一つには、京都在住の知人2人と久しぶりに逢って食事をすることにありました。携帯電話を取り出した私に、「静かな境内です。小さな声で電話してネ」と娘が注意します。

     実は、ここに来るまではなるべく娘と別行動をしようと考えていました。
     でも、この京都の下町風の町並みを歩いたことで、しばらく忘れていた心の故郷に帰ったような気分につつまれ、娘と気楽に喋りなら歩いたことで、ここ数年話らしい話をしていなかったことを悔いて、少しづつ私の心に変化が起こりはじめていたのです。

     その証拠に私は小声になって、「次回はひとりで来ます。今回は娘と観光客があまり歩かない京都の街を歩きます」と、断りとお詫びの電話を入れていたのでした。 

     建仁寺は鎌倉時代の創建で、二代将軍頼家の開基と聞いていましたので、前々から一度訪れてみたいと思っていた寺でした。
     受付を済ませて座敷に上がると、正面には俵屋宗達の「風神雷神図屏風」が展示されています。

     日本画を習っていた娘は、感激してしばらく屏風の前から離れることができません。そして、この屏風を表紙にした朱印帳を買い求めてまた感激しているのです。

     先ほどから気分はすっかり地元びとになっていましたが、この寺の本堂の広縁に足を投げ出し、枯山水の前庭「大雄苑」を見ていると、あたかも自分が庭の石組みや木々に融け込んだような境地になっているのです。
     そして、そこだけまた時間が止まっているのです。

     一端庭に出て法堂に入ります。
     堂内の照明に写し出された迫力ある「双龍図」が天井を埋めています。作者は鎌倉出身の小泉淳作画伯でした。
     以前に鎌倉の建長寺の法堂で「雲龍図」を見たことがありましたが、なるほどここは鎌倉の源頼家開基の寺だけに、鎌倉に縁のある小泉画伯に依頼したのだろうかと勝手に思いを巡らせたのです。

     鎌倉時代の年号である建仁を、そのまま寺の名として800年の歴史が流れましたが、人との縁も800年つづいていたのだろうかと、偶然の思いつきを楽しんでいました。

     茶室「東陽坊」のにじり口の狭さに、茶道のこころの広さを見つけました。
     かつて知人が、「建仁寺に、私の祖父の画があります」と語っていたのを思い出しました。そこで本堂に戻り、各部屋に展示してある橋本関雪画伯の「生生流転」「伯楽」「松籟」などの作品を、ゆっくりとはじめて鑑賞することができました。

     家に帰ってからも、建仁寺にお参りした日のことを思い出します。
     不思議なことにあの寺に入ってからは、娘とほとんど声を交わしていなかったのです。娘も、それを楽しむかのように静かな寺の空気になじんでいました。

     渡り廊下によって「池泉回遊式庭園」を一周することができました。そこでも観光客にはほとんど会いませんでした。まるで自分の家に帰ったような気分に浸りながら、「この寺には、もう一度来るかも知れない」と漠然と考えていました。

     寺の受付で八坂神社までの道筋を尋ねて、東門から建仁寺を出て祇園の花見小路通りに向かいます。

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