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「仏像を彫りながら」2 

 
   「仏像を彫りながら」2      
    令和元年9月9日(月)
                               
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  • 前回、仏像を彫り始めたのは中学2年生の夏休みと書いた。しかし、製材所で貰った木材のきれっぱしを前にして、忽然と彫り始めたというのもなにか不自然である。

    あれは中学1年の夏休み間近だったと記憶している。近くに「大堀」という場所があって、そこは危険だからと「近づかないように」と母親から言われていた。危険だと言われると行きたくなるのが悪ガキの習性である。急峻な崖を、木々につかまりながらそろりそろりと降りてゆくのはとても怖いのに、なぜかワクワクもしていた。ようやく崖を降り切ると、そこにはきれいな小さな流れがあって沢蟹が走り回っていた。

    沢蟹を追いかけ回していると流れの縁に柔らかな粘土があった。何気なく、その粘土を丸めて家に持ち帰った。母親の眼を盗んで、その粘土をこねくり回している内に、いろんな形になるのが面白くて熱中していた。そしてふと思いついたことがあって、翌日バケツを持って再び大堀に向かい粘土を持ち帰った。

    翌日から「ふと思いついたこと」の実践に入った。兄の書庫から、この顔なら作り易いと思われる写真を選んで粘土で作り始めた。それが写真の「志賀直哉と武者小路実篤」の頭部製作であった。勉強は苦手だったが、好きなことは夢中になれる性質(たち)であった。そんなある日に人の気配がして振り返ると、そこには八の字髭の作務衣に下駄履きの老人がぼくの作っている像を穴のあくほどじっと見ていた。そしてぼくに「〇〇さん、次に来るまでにリンゴでも作っておいてください」とだけ言うと立ち去った。

    その人が高〇富〇雄という人で、80歳を過ぎてからイスラエル聖地巡礼をし、帰国後一人で教会を建てて清貧な生活をしていた。その教会の寄付集めに都内の元同窓生の財閥会社を回ったが、その時のいでたちも作務衣下駄履き八の字髭であったという。その人がまた突然に「リンゴはできましたか?」と尋ねてきた。ぼくが黙って差し出すと「これから出かけられますか?」と言った。ぼくは嫌とも言い出せずにリンゴを持って高〇さんの後ろに着いて歩き出した。

    高〇さんは病気がちだからゆっくりした足取りで「これから棡原の〇村草家人先生にリンゴを見てもらいましょう」というのである。戦争中は多くの芸術家や文化人が、ぼくの故郷の上野原や藤野に疎開していたが、戦後もそのまま住んでいる人も多かった。でもぼくには〇村草家人という人のことなんて知るはずもなかった。

    いくつもの部落を抜けて1時間は歩いて棡原の〇村家に着いた。ぼくのリンゴを前にしてお二人は、お茶を飲みながらあれこれと長い時間話していた。しかし、ぼくにはなんの話かも分からずにいると、高〇さんは「それでは・・・」と立ち上がり、またとりとめのない話をしながら帰ってきた。

    ※後日談だが、高〇さんは「〇村先生に弟子入りをお願いしたのです」と話してくれたことがあった。不思議なことは、その後ぼくが大学に進学してからも、個展が開かれるたびに〇村先生から案内状が届いていた。

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