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たらふく飲んで [つれづれの記]




  たらふく飲んで

                        
 
平成22年3月2日(火)

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  • 上野公園内にある東京都美術館で開催されている、「書道展」に招かれた。

    御徒町に本社のある会社を経営している従兄弟と、11時30分に南口で待ち合わせた。その待ち合わせ時間までには、まだ大分時間があったので、久しぶりに吉池や松坂屋あたりを歩いてみた。

    吉池の店先で値札を見て驚いた。
    私の住む藤沢の安売り店よりも更に安いのである。この店に、長年勤めていたと聞いていた足立区河原町の義姉のことを思い出していた。

    駅の付近を一回りして御徒町駅に戻ると、すでに従兄弟の社長が待っていた。「先ずは蕎麦でも」ということになって、馴染みだというその店の暖簾を潜った。

    地下にある店ではあったが、店の造りもよくて、見た感じからもうまそうなソバ屋である。磨かれた欅のテーブルの隅に、さりげなく黒文字の楊枝が置かれてあった。

    季節限定だと勧められた「五色蕎麦」とやらを注文した。2500円だというが、つゆをつけずに啜るとなるほど喉越しもよい。
    「蕎麦は、これでなくてはいかん」と言ってはみたが、それ程の蕎麦通でもない。

    ソバ屋から出ると、従兄弟が近くのコーヒー屋でタバコが吸いたいというので寄りこんだ。しばらく世間話をしてから、「それでは3時に、展示会場でお会いしましょう」と言うと、彼は一端会社に戻ることになった。

       ・  ・  ・  ・  ・

    昨日の暖かさがうそのような寒い日で、思わずコートの襟を立てて、徒歩で上野を目指した。

    藤沢とも新宿とも銀座とも異なる人の流れと一緒に、上野の山に登りはじめた。まだソメイヨシノの蕾はかたかったが、公園の入口に咲いているヒカン桜(?)の1本が、日ごとに春の近づいていることを知らせてくれた。

    約束の3時までには、まだ2時間近くもあったので、数十年ぶりに恩賜公園をふらついてみることにした。
    さて西郷南州翁の銅像前に立ったのは、いつごろのことであったろうか・・・。

                    P1100722.jpg

    まだ上野に浮浪児がいたころかと思ってもみたが、その後にも一緒になる前の妻と何度か訪れていたことを思い出していた。いや50年近い前にも、鹿児島から進学してきた学友を案内して、この西郷像前に立ったこともあった。

    あれからも、毎年のように訪れているはずのこの上野公園なのに、この西郷像の前に立ったという記憶がない。地方から上京して来たと思われる人たちと、しばらく像を見上げていたが、やがて銅版の文字を追う私にはなんの違和感もなくなっていた。

       ・  ・  ・  ・  ・

    公園の道を右に折れ左に曲がりながら、ここを歩いたことのある過ぎし日のことどもを回想していた。見物人の誰もいないパフォーマーの男と目が合ったが、見ないことにしてそのまま通り過ぎた。
    通り過ぎてから気になって振り返ると、リュックサックを背負った外国人が話しかけているのが見えた。

    どこをどう歩いたのか記憶はないが、気づくと前方に国立博物館が見えて、その前の広場はテント村になっていた。九州の陶芸展と物産展会場の文字が見えたような気もしたが、それも定かではない。というのも、身体が寒さで凍えていたから入ったのであって、特に陶芸展に興味があったのではなかった。

    少し身体が温まったのでテントの外に出た。

    いつごろ植えられたのかは知らないが、上野の山でも河津桜が咲いて目白が蜜を吸っていた。しかし、画面中央の目白とでも書かないことには、どこに蜜吸う目白がいるのか分からないのである。

           P1100725.jpg

    博物館をのぞくにしては少し時間が足りない。
    そろそろ都立美術館に行ってみようかと、入口近くまで来たが、入らずにそのまま前を通り過ぎて動物園の前まで歩いた。

    若い頃に妻と来たことのある鶯だんご屋の前も通り過ぎて、隣りの東照宮の鳥居を潜った。

           P1100727.jpg

    ここの鳥居も、50年前ぶりに潜ったことになる。
    本堂は修復中であるらしく、唐門の後方には原寸大の本堂写真が展示してある。

    この唐門の前に立つことで、なんとなく「今日の一人散歩」の目的が達せられたような気がしていた。それは門の左右に嵌めこまれてある
    左甚五郎の上り下りの龍を、50年ぶりに見ることができたからであった。

             P1100731.jpg

    この天才彫り物師の出来ばえを見たいと、目を凝らして見ようとしたが、どうにも見えないのである。
    そこで仕方なく、写真に収めて家に帰りパソコンに取り込んでから、拡大したことでようやく見ることができた。

              P1100729.jpg  

    境内には数人の外国人と、数人の観光客以外にはほとんど人もない。

    自分の靴音を聞きながら、東照宮を後にして美術館に戻って来た。
    館内ロビーに入ると暖かさにほっとした。会期中の「ボルゲーゼ美術館展」のビデオが流されていたので、正面の椅子を陣取ってながめていた。

    というのも、約束の時間に合わせるためであった。

    頃もよしと、「第58回 詩歌自詠 清真会書道展」の会場に近づいた。
    お年寄りの参観者が多いこともあってか、ロビーの椅子はすべてが埋まっていた。
    会場が見えるところまで近づくと、なんと常任理事審査員の小林泰有氏が、従兄弟の女性と会場から出てこられたのであった。

    今回の出品作品が入選されて、先ほど表彰式を終えられた人をロビーに残して、私たち3人と仏画家の福島雅子氏の4人は会場に入り、そこで作者の泰有氏から直接作品のご解説をいただいた。

              P1100755.jpg

    漢文の現代語訳をお聞きしながら、この書の上部に描かれていた天女らしき画が気になっていた。天井からのライトが反射して、見にくくはなっていたが、それでもなんとか撮影を試みてみた。
     
    いつものことながら無粋な私は、「この画も先生が描かれたのですか」と聞いてみた。すると、「いや、描いてくれたのは雅子さんです」というのであった。

    なんと、隣りでほほ笑んでおられる福島雅子氏の作品であったのだ。

          P1100757.jpg

    そうこうしている間に、御徒町で一端別れた従兄弟と合流した。
    みんなが揃ったところで、先ほど表彰式を終えた方の祝いを兼ねての食事会が、用意されているという広小路へと向かったのであった。

       ・  ・  ・  ・  ・

    私たち3人のタクシーが広小路の店に到着すると、すでに先発の4人の方々は待機しておられた。

    すぐに料理と酒が運ばれて、今日表彰された方の祝いの乾杯となる。
    やがて、初めてお会いする席ということもあって自己紹介がはじまった。

    ところが、その自己紹介に周囲から問があびせられ、いつの間にか世間話となり次々と話題が膨らんで、いつまでたっても最初の人の自己紹介が終らないのである。

    こうなるともう、この席では「喋りたい」という空気に火がついて、まるで「掛け合い漫才」のごとく人の話にも割り込んで、話が話を次々と膨らませてゆくのである。

    酒がまわり、話題も沸騰し、やがて笑いの渦はいつ果てるとも知れなくなってゆくのである。
    いや、その雰囲気に酔っていたのは私だけであったのかも知れない。そう思いながら周囲を窺ってみると、まるで燎原の火のごとく、一端放たれた「お喋りの火」はもう消すことはできなくなっていた(ここで話しの内容を書けないのは残念ではあるが・・・)。

    どのくらいの時間が経過したのであろうか・・・。
    そして誰が、「お開き」の合図をしたのかも分からない。気づくと玄関の上がり框で靴を履いている自分がいた。

                     (小林泰有氏から寄贈された「展示作品」写真
    )
                    P1100776.jpg 

              (福島雅子氏から寄贈された「何故」と題する原画)
                    P1100773.jpg

    店の外に出ると、町田経由で藤沢に向かうというタクシーに乗り込もうとするお二人がいた。
    同じ方向だからと、便乗しようとタクシーのドアーに近づいたが、その私の腕を取って引き戻したのは、あの従兄弟の社長であった。

    腕を取られたままでタクシーを見送る私に、従兄弟は「これからです」と念をおされたのであった。

    なにげなく視線を胸元に落とした。
    そこには安物だけれども、ある人から記念にいただいたネクタイピンがなかった。慌てて店に取って返すと、微笑みながら「これですか・・・」と店員が差し出してくれた。

    このあたりで、この「たらふく飲んで」の記事を終わらせておけばよいものを、ここで終わることができないのが「遊行上戸」の悲しさである。

       ・  ・  ・  ・  ・

    この記念のネクタイピンを落としたのは、今回で2度目のことである。
    こうして2度も我が手に戻ったことの不思議さを思っていた。従兄弟は、そんなことはもう忘れたとでもいうような顔をして、「銀座に行ってください」と運転士に告げた。

    そしてどちらからともなく、「病気自慢」の話になった。
    昨年心臓のカテーテル治療をした私のことを、弟から聞いたと驚いていたが、自分も数年前に医者に脳梗塞の跡があることを指摘されて、それ以来定期的に検査を受けているのだという。

    病気自慢の話題が一区切りしたところで、従兄弟は携帯電話を取り出して、どこかに電話をはじめた。突然にその電話を目の前に突き出して、私の弟の名前を告げたのであった。
    携帯電話から流れてくる弟の声は、「川越での出張先の仕事が終わり、いま都内に戻るところだ」と言っている。

    その弟と合流するには、銀座よりも新橋の方がよいと思ったのだろうか、電話が終ると従兄弟は「新橋に行ってください」と行き先を変更していた。

    新橋のその店は、従兄弟のなじみの店らしく、飲み始める前から冗談が飛び交っていた。酒がすすむにつれて、いつしか年を聞かれた私が「古希です」と応えると、「とてもそんなには見えません」と世辞を言われて、また饒舌に油が注がれたのでありました。

    従兄弟が十八番(おはこ)を2曲歌い終わった時に、川越から到着した弟が颯爽と店に入ってきた。颯爽と見えたのは、たとえ仕事は老いた身には辛かろうと、現役としてバリバリ働けることを羨ましく思う気持ちがあったからであろう。

    気づけば、この店の女性のほとんどがハーフであった。この新橋あたりは、ハーフの女性ばかりなのかと思いながらウイスキーの水割りを口に運んでいると、「次に行きましょう」と従兄弟が立ち上がった。

       ・  ・  ・  ・  ・

    次の店まで、タクシーで行ったのか、徒歩で行ったのか定かではない。
    酩酊するほど飲んだつもりもないけれど、この時間のこととなると、数日してからではどうにも思い出せないのである。

    今度の店の女性は日本人ばかりで、話題もなんとなく日本的なものとなった。それにしても、従兄弟と弟のお供の身では、さすがに羽目を外して酔っ払うわけにもゆかないのである。

    借りてきた猫とまではゆかないが、珍しく暗い演歌の一曲も歌うことなく、ウイスキーえを舐めながらホステスたちとの会話を楽しんでいた。

    「さて、そろそろ引き上げるか・・・」と言い出したのは私であった。
    抑えていたものがどこかで綻びたのか、弟の歌う演歌のマイクを横取りしたことで、歌いたい歌うぞという気持ちに火がついた。しかし、このまま歌いつづけたら、今夜は帰れなくなるとどこかで気づいてはいたからである。 

    「青い山脈を歌うぞ・・・」と立ち上がり、店のお客も一緒になって、青い山脈を歌い終わった。だいぶ前から、どこに行っても、誰と行っても、帰る時間になると必ず、この「青い山脈」を歌うことにしているのである。

    老いたるも若いお客も、迷惑がらずに合唱してくれるのだから、店に迷惑がかかっているようにもみえない。そのうちに銀座から新宿へ、池袋から藤沢まで、飲み終わる時間になって、この「青い山脈」が歌われるようになったなら、それは私が流行らせたことなのである(といっても、数十年も前から実行していることである)。

       ・  ・  ・  ・  ・

    店から出てタクシーを停めた弟が、「兄貴、今夜は車で帰ってよ・・・」と言い終わらぬうちに、私のポケットに金をねじり込んだようである。それを酔ったふりをして、気づかぬふりをする自分にも悲しいものがあった。

    ところがタクシーが走り出した時に、「東京駅」と運転士に告げていた。というのは頭の中で、「まだ東海道線の最終があるはずだ」と思っていたからであった。

    ふらふらと東海道線のホームに辿り着くと、国府津行きとある電車に乗り込んだ。
    座席に腰を下ろして、1日の出来事にしては少し多過ぎる、様々な人たちとの一期一会を思い出しては楽しんでいた。

    藤沢駅から街に出ると外は雨だった。
    寒いのに心だけは暖かかった。
    雨音に紛れて、「青い山脈」を口ずさんでいた。

    新橋でタクシーに乗り込む時に、弟がコートのポケットに強引にねじり込んでくれた紙幣が手に触れた。
    思わずそれを、ぎゅっと握り締めていた。






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