「今日の富士山」 09・NO6 [今日の富士山]
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今日の富士山 2009:2月 NO6
平成21年2月21日(土)~平成21年2月28日(土)
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- 平成21年2月21日(土)
富士を撮っていたら、「来週は1週間天気がよくないそうよ」と妻が言った。そして、「今日は三和の冷凍品が安いのでお願いします」と重ねて言うのである。
こんなことでわざわざ車を出すようになったのは、4年前に退職してからのことである。
平凡に時間(とき)の流るる幸せはことさらなにをなすわけでなし
467号線で龍口寺に出て、鎌倉の津西まで歩いた。古い知人が住んでいるというあたりを歩いたが、そのお宅を見つけることはできなかった。
どこまでも突き抜けてゆく青空になぜか知らねど悲しくもあり
悶々として見上げたる青空を飛行機雲の切り裂いて行く
まったりと夕陽にそまり心なき雲の行く末たれか知るらん
- 平成21年2月22日(日)
もやってはいるが、午後からは見えなくなるという富士を撮っておく。
仏像彫刻の稽古日であった。
せめてもの無心となれぬあれこれと迷いながらも仏像を彫る
ささやかなこたえの見えて安らかな刃先のヘギの丸く落ちゆく
すこしづつ形となりて仏像の御手をわが手にのせて見るなり
意識なき手元の刃(やいば)すべるなりほど遠きこと無心とぞ知る - 平成21年2月23日(月)
天気予報はよく当たる。
朝から雨である。それに、今日から1週間は雨模様だという。
散歩に行けないので、昨日のつづきの仏像彫りをはじめた。
静寂が氷雨となりて絶え間なく窓のガラスをつたいて流る
ぽつぽつと軒端の桶の雨だれの音の刻みを黙してぞ聞く
訪(と)うことも訪われる人も雨の日の晴れたる日にも逢う人のなし
これまでに苦労をかけた雨の日に整骨院に行く妻送る - 平成21年2月24日(火)
夕方から雨になるという。それまでに散歩に行けるだろうか、ようやく2kgほど減量できたのだから・・・。
暖かくなったらきっと逢いたいと書ける旧友(とも)からメールの届く
公園の散歩で撮ったと紅梅の旧友(とも)のメールに明るさのあり
病む人の日々の苦痛を吾がことと思えば言葉とぼしくもなる
曇りというので外に出たが咽ぶような雨が降っていた。
つれづれにウオークマンと歩む日の黄昏の街に霧雨の降る
幼き日氷のようだと祖母のいう軍手の指の冷たかりけり - 平成21年2月25日(水)
明け方よりもあたりが一層暗くなった。
日本の首相がホワイトハウスに招かれたニュースが流れていた。
いろいろ大変な時代ではあるが、国民がしっかりしていれば上に立つものは誰でもよいと思っている。
「国民があきらめた時に戦争が起こる」と、終戦後の演説会で語っていた弁士の言葉が、今でも道しるべである。
雨が降っているので、藤沢のルミネに絵を観に行った。
というのは、今朝の「朝日新聞湘南版」に、齋鹿逸郎の「鉛筆画の異才、抽象への憧れ」という展示会についての記事が載っていたからであった。
会場の入口付近に、「鉛筆」というタイトルで、
「日本海にも春があり冬がある。冬の日本海の白波など一日見ていても飽きないほどの変化がある。(中略)・・・押し寄せる波と雲に彼方を閉ざされた風景の一刻一刻の変化の妙にも吾を忘れるほどだった。あの風景もまた鉛筆につながったと言へなくもない。色の世界が目の前にあるとは思へなくなったからである。なるほど龍の住むという玄という色はこんなものかも知れないなどと想像したりする程だった。そういうもやもやしたものがあっての鉛筆であった。」
と書かれていた。
(制作中の作者)
「私は作品の制作にあたって、制作の年代も出品画廊のこともタイトルも寸法も一切記録してゐない。描き終はつたものは見向きもしない・・・・・」
と書かれていたので、以下の作品のタイトルも引用しない。
だから感想も書かない。
(会場の外壁に展示してある作品)
(上の作品の一部分を拡大)
2枚目の言葉には、
「絵を描くということは・・・、結局、田を耕すのと同じことですね・・・。実際まったく、紙のうえに背中をまるめて蹲くまり、一点一画をコツコツ鉛筆で描いているぼくの姿をはたから見たら、田植えしているのと同じように見えるでしょう。」
とあった。
(会場内の作品1)
(註)
「和紙に膠で溶いた白亜(石灰岩の粉)や胡粉(貝殻の粉)を塗り、硬軟さまざまな鉛筆の軌跡で隅々まで埋め尽くしていく。再び白を塗り、鉛筆を振るう作業を繰り返す。独特の技法を貫き、孤高の道を歩んだ。」(「朝日新聞」)
(会場内の作品2)
受付近くには齋鹿逸郎の刊行物が数点置かれてあった。その中の歌集、「伯伎集」を手に取った。
絵のことの分からぬ私は、「この人の絵は、この歌集を読めば分かる」ような気がしていた。
雨が上がり夕暮れになって、写真では見ることはできないが、富士の輪郭だけがかすかに見えていた。
もくもくと生きた証を刻みつけ無限の先になにを見たのか
日本海描きつづける生涯にふれて雨傘ブラブラ帰る
- 平成21年2月26日(木)
夕方まで雨は降らないというが、やはり富士は見えない。
藤沢にはうまい鰻屋がある。
娘が休みだというので、久しぶりに3人で食べに行こうということになった。もしかしたら、この店は引退して以来だったかも知れないから、4年ぶりということになる。
昼食後に、私だけ大船の「鎌倉芸術館」に向かった。
今朝の「朝日新聞」に載った「平山郁夫展 東西文化交流の道シルクロードの旅」を観たかったからであった。
なんでも平山画伯の鎌倉市名誉市民を記念しての展示会であって、うれしいことに入場無料であった。
(鎌倉芸術館展示会場前のポスター)
昨日藤沢ルミネで観た齋鹿逸郎の作品でも感じたことであるが、これほどの時間を絵に打ち込まなければ、一つの作品として完成しないのかと考えたらなんだか恐ろしくなった。
最近ではほとんど買うことはないが、観終わってから再び受付に戻ってパンフレットを買った。それは平山画伯の素描作品が気に入ったからである。
以前から水彩画を描いてみたいと思っていた。この作品の中から1枚を選んで、それを手本に稽古してみようと考えたからである。
水彩を描いてみんとて六十年前の日は絵の具なけれど
これならば描けるものと素描画にひかれて思わずパンフ買う
素描画の線のしだいに太さます娘のペンで真似てみるうち
(展示作品集の表紙)
- 平成21年2月27日(金)
ぼんやりとした富士を見たのが、2月22日であるから、それからすでに5日間も富士を見ていないことになる。
こんなビルの間にある広告塔ばかりを毎日撮りつづけていると、だんだん自分でも、なにをしているのだろうかと滅入ってくるのである。
都内や相模原には積雪があったという。この藤沢では、1日中冷たい雨が降っていた。
まだなにかできると思う老人の心をくだく春時雨ふる
- 平成21年2月28日(土)
これから晴れるというが、まだ富士は見えない。
今年もあっという間に2ヶ月が終った。
午後には晴れてきたが、結局富士を見ることはできなかった。
「久しぶりに思い切って歩けぞ」と思いながら家を出た。
小動の浜を目指しながら、龍口寺の隣にある今にも朽ち果ててしまいそうな社が気になった。この滝口明神社の境内だけが、鎌倉市の飛び地であるということを聞いたことがある。
元々、この辺りは鎌倉の区域であったものが、藤沢市に移管されたのであった。だから、この神社の一画だけが飛び地となって取り残されてしまったのである。
そこで龍口明神社は、氏子の願いによって鎌倉市の腰越に引っ越したという。
昔、五頭竜が住んだという地であって、この竜が天変地異を起こすので津村の子供たちは生贄として五頭竜に捧げられたという。そこで、この地は「子死越」と呼ばていたが、やがて「腰越」という地名となったのだという。
なぜだか分からないが、そこを訪ねてみたくなった。
龍口寺の山門前から、腰越中学校に抜ける裏道に入った。
観光客の滅多に通らない、この道が好きである。
路地裏のような細い道を右に左に折れてゆくのを楽しんでいると、この見知らぬ小さな寺の前に出た。
なぜか京都にでもあるような風情のある寺であった。この寺は「かくれた躑躅の名所」でもあるという。
(宝善院)
モノレールの西鎌倉駅まで、約1kmほどの表通りに出た。
とある家の庭には、ミモザの花が咲き乱れていた。思わず、断りもなく1枚撮らせていただいた。
腰越の古寺をめぐりて見上げたるミモザの花の今盛りなり
行きさきの定まりなき道遠き道ただテクテクとあゆみ行く道
日の暮れのつめたき風よ頬なぜて枯野の先に春来るらし
ゆらゆらと住む人のなき庭の菊むなしく風に立ち枯れており
記憶では、西鎌倉駅が見えたら新鎌倉山入口の交差点を右に折れ、少し坂を上ったところの左手に龍口明神社が見えてくるはずであった。
この神社の境内には、藤沢市片瀬地区から、この地に遷座した神社の由来が黒御影石に刻まれていた。
今日で2月が終った。
2009-03-01 11:36
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