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湘南あるいたの記 59 [湘南あるいたの記]

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  湘南あるいたの記 59

                               平成20年12月18日(木)~平成20年12月22日(月
                   
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平成20年12月18日(木)
  • 藤沢駅~高座渋谷駅~藤沢駅
  • 5448歩・2km
  • 午前11時から、21日に開催する「イベントの打ち合わせ」があった。

    午後5時までに集合と約束してあった高座渋谷駅前のトンカツ屋の前に立った。
    ところが「準備中」の札がかかっている。やれやれまだ暖簾を出す時間ではなかったようだ。仕方なく駅前でもふらついて来ようと踵を返そうとした時にガラス戸が開いた。

    当然まだ誰も来てはいなかった。
    お茶を出してくれた女将さんと店主に挨拶代わりの話をしていた。女将さんが2冊の本を出してきた。1冊は車のGTーRの設計に携わっている人の紹介特集の記事が載っている雑誌であった。
    もう1冊は、少し前まで横浜にあるサッカーJリーグの監督をしていた人物の文章が載っているという単行本であった。

                    P1060498.jpg

    懐かしい面々の文章を読んでみようとページを開いたが、老眼の目には文字が小さ過ぎて読めないのである。まだ誰も来ていないのを幸いに、駅前にあるコンビニで「拡大コーピー」をしてくると外に出た。
    駅前には、今日の集まりに参加する1人が立っていた。

    店に戻り2人でポツリポツリと昔話をはじめていると、また1人がガラス戸を開けて入った来た。
    つづいてもう一人が参加して、ようやく酒が出てトンカツが並んだ。トンカツといっても味噌・大葉・ヒレ・ロースなどの変り種があって飽きさせないのである。

    数年前に会った仲間もいるが、他の2人は十数年ぶりの再開である。

    「懐かしいね」と言いながら酒をついでグラスを合わせると、もう過ぎ去った時間が完全に埋められていた。
    そろそろ酔いがまわったころになると、いつの間にか若い人たちが6人ほど仲間に加わっていた。

    大騒ぎして大笑いしていると時を忘れてしまう。
    酔眼で店の壁の時計を見上げると、もう9時30分を過ぎていた。

    「そろそろ帰るぞ」と声をかけて立ち上がり、集合写真を2・3枚撮って外に出た。しかし、外に出たのは老人の4人組だけであった。外に出てしばらく待ったが若い連中はまた飲みはじめたようだ。
    振り返ると店のガラス戸は閉じられたままであった。

    あきらめて4人の老人は駅前で手を振り別れた。私は藤沢行の各駅停車に乗った。
平成20年12月19日(金)
  • 藤沢郵便局前~村岡~県立フラワーセンター前~竜法寺トンネル~玉縄トンネル~城廻交差点~関屋地蔵(田谷藤沢線)~遊行寺前(戸塚茅ヶ崎線)~藤沢橋 
  • 14768歩・8km
  • 県立フラワーセンターに寄らずに先を急いだのは、今日も「散歩コース」の選定をしようと考えていたからである。
    以前に新井白石の碑をみたいと竜法寺を尋ねたが、そこから北に向かえば東海道に出ることは知っていた。そこまで行かずに途中で西に向かえば藤沢に戻れることも知っていた。

    竜法寺を過ぎてゆるく右回りの道を行くと諏訪神社があった。そこから今度は左に曲がる道は上り坂になる。栄光学園のフェンスに沿って玉縄トンネルを越えると今度は下り坂になる。
    突き当たりの城廻交差点を左に折れて進むと、前に車で来たことのある道であった。

    藤沢方面の標識が見えて、やがて田谷藤沢線に出た。
    ずいぶん歩いたと思って歩数計をみるとまだ6kmであった。あまり慣れてない道は遠く感ずるもののようである。
    このあたりには不釣合いな数軒の食べ物屋が並んでいる。1号線に出入りする運転士たちを相手にする食堂であろうが、あまり賑わっている様子はない。

    その店の切れたところの道沿いに「関屋地蔵」が祀られてあった。

    P1060484.jpg

    この近郷近在の人々に大切にされているお地蔵さんのようであった。
    鞘堂に守られ、お花が供えられ、歌碑が建てられ、小さな地蔵が碑の前に置かれてある。竜法寺の境内にあった古民家は、この関屋の街道沿いにあったものであったと記憶している。

    この関屋は古くは街道の要衝にあった。今では静かなところであるが、東海道に近く鎌倉街道にも近い、その道を北上して東俣野からは多摩や甲州路にも抜けることのできた交通の要でもあった。

    この地蔵堂は、もともとは城廻村の貞宋寺の地蔵堂であったという。それが正保年間に関屋村(当初は36戸であった)という村が生まれた時に、「関屋地蔵堂」(新編相模国風土記)となったものである。相模国準四国八十八箇所第十八番札所に位置づけれれ、玉縄城とともにこのあたりでは最も古い史跡となっている。

    関谷城廻町内会の「関谷地蔵堂の由来」によると、

    この辻は江戸時代は仕置場(刑場)で、打ち首や叩きの刑罰や冤罪も混じり、殺された者達の怨念が辺り一面に漂う場所であったようです。罪人の死骸はその付近に放置されていたので、村人が哀れんで辻の近くに埋葬しました。やがてそこに石が積まれ、香華がたむけられ、供養塔の建つ土台ができました。いつか地蔵菩薩を祀り、やがて小屋が掛けられ立派な堂宇ができました。江戸時代末期から明治初年頃には寺子屋として堂宇が利用される程大きく立派なものになり、明治6年5月に貞宗寺境内に玉縄学校が開校するまで関谷の寺子屋式の学校でした」

    と書かれてある。

    数段あるコンクリートの石段をのぼり鞘堂の中を覗いてみた。
    どうやら3体の地蔵が祀られているようである。これは右側に置かれてある素朴な姿の石地蔵である。


             P1060487.jpg

    中央の仏像は木彫りの一番背の高い地蔵のようであるが、前に置かれた焼香台などで拝見することができない。
    左側のお地蔵さんも石像であるが、これも素朴な坐像で親しみがもてる。

             P1060488.jpg

    「散歩コース選定」が今日の主目的ではあったが、この地蔵堂の前ではしばらく休んでいた。

    ぼんやり歌碑の文字をながめていたが、なぜか読み取ろうとも、写し取ろうともしなかった。
平成20年12月20日(土
  • 藤沢市内 
  • 9723歩・5km
  • 明日のイベントの食材の買出しに歩き回ったのが5kmであった。

    町内のとある家で夜遅くまでイベント用のトン汁の下拵えをしていた。といっても焼酎を飲みながら軽口を叩いていただけの私であった。
平成20年12月21日(日)
  • 4266歩・2km
  • 町内会のイベント日である。
    午前10時から夕方の5時過ぎまで、動き回り立ち尽くしていたのでさすがに疲労困憊である。
    前日から仕込みに入っていたママさんたちのトン汁やホットドッグは大好評であった。私は「余興代わり」のお好み焼きや焼きソバづくりをしたが、これも意外に好評であった。

    100人分の食材を用意したが、その半分の参加者もいなかった。
    前回の「ハロウィン」では予想以上の参加者がいたので、それ以上の参加者があった場合を想定してのことであった。

    今回までに3回のイベントを企画してみたが、町内会活動もよほどの工夫をしない限り、もうつづけることが困難な時代になっているようである。いやだいぶ前から言われていたことだが、これほどであるとは思っていなかった。それだけ現代の日本は忙しいのである。

    聞くところによると、自治会活動がすでに失われた地域も多くあるという。

    しかし、つづけることが難しくなっているとはいうものの、この地域における伝統や文化の継承が途絶えた時に、日本そのものが失われてゆくのであろう。
    それは悲しいなどという情緒の問題ではないのかも知れない。

平成20年12月22日(月)

  • 年の瀬の大掃除の手伝い、その1日目である。
    そして買い物のお供と仏像彫りを少々・・・。





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