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游「ちょっと神棚の話」 [「游」シリーズ (2012)]


  游「ちょっと神棚の話」        

         
                      
 
平成24年12月29日(土)
                               
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  • わが家は狭いマンション住まいであるが、神棚だけはお祭りしている。

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    気障な奴だとお思いでしょうが、自分や家族の幸せを後回しにして「世界の平和」をお祈りしている。しかし、若いころから妻は神さま仏さまにはあまり関心がないようであった。

    それでも不思議なこともあるもので、夫婦を50年近くもやっていると仲がよいとはいわないにしても、どこかで夫唱婦随の部分も表れてくるものらしい。黙って見ていると、私以上に神棚や仏壇を清浄に保っているし、元旦には神前・仏前にお供えする神饌を必ず用意している。それに毎年、男子の私が神前・仏前に食物を差し上げてからでないとお雑煮は出されないのである。

    神棚を祭るということは所帯を持った時から行っている。

    近ごろでは「お札をお祭りするところがない」とお土産にお札をお届けすると困った顔をされることもある。私は「屋根違い三社」をお祭りしているが神道関係者ではない。おそらく田舎で育った私の中に、神と共に生活していたという印象が強くあって、独身時代から小さなお札入れをお祭りしていたのだろうと思っている。

    これは特別なことではないと思っている。

    ことさら神さまのことについて学んでみようなどと思ったことはない。しかし、こうして毎年神棚のお掃除をつづけているだけでも、その都度「なるほど」と思わされることや発見がある。

    幼少時代を過ごした山梨の田舎で、ある古老が「幣束の下を潜っただけのことはある」と何度も言っていたのを聞いたことがある。そんな諺があるとも思われないが、当時は分からなかったその言葉が成長するにつれて少しずつ分かるようになった。私も幣束の下を73年潜ったお蔭で、若い人からの質問の幾つかには答えられるようにはなった。

    3年前から白旗神社の氏子総代に推挙されたのにも、この神棚を祭ったことの導きがあったのかも知れない。92歳で亡くなった母が「思ってさえいれば必ず願いは成就する」と語っていた。

    私の小さな波瀾万丈の人生だって何度この言葉に助けられたことだろう。

    節目節目の危機的状況にあっても、この言葉にお世話になったことは多かった。少し悔いていることは強運に出会った時に、その幸運に恵まれたことに溺れてその機会を充分に活かしきれなかったことであった。それは幸運の到来に有頂天となり、肝心な「願う」ことを放棄していたことであった。

    今年は、伊勢神宮と出雲大社の式年遷宮の年でもある。

    念じているわけではないので、この神宮と大社の遷宮に関わりを持てることはないであろう。でも白旗神社の氏子総代を務めていることもあるから、なんらかの関わりが出て来るかもしれない。

    また、出雲大社国造の親戚筋の方が毎年の12月から2月まで藤沢に来られている。その人と知り合いになれたのもなにかの縁で、もしかしたら今年は出雲大社にお参りすることになるかも知れない。

    さて、これらも神棚のご利益かも知れない。



    (註)この記事は、まだ書きかけのものです。



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