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引地川旅情 [つれづれの記]

  引地川旅情
        
                      
 
平成23年4月5日(火)

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  • そろそろ引地川河畔の桜も咲いただろうと家を出た。

    と書き出しておきながら、あれからすでに数日が過ぎた。
    おそらく、この桜も満開となって、道行く人々を楽しませているのであろう。

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    大津波の後、1度も鵠沼海岸に行くことはなかった。

    それは海が怖かったからであった。

    それでも妻に追い出されるようにして、愛犬のあずきと家を飛び出したのが、4月5日のことであった。

    ところが、引地川沿いのサイクリング道路に出たところで、鵠沼海岸には向かわずに、上流に向けてハンドルを切っていた。

    それというのも、大庭城址公園と引地川河畔の親水公園の桜並木の開花が気になっていたからであった。

    いや、それよりもなによりも海が怖かったからであった。

       ・  ・  ・

    旧東海道と引地川の交わる橋(引地橋)の袂に、川面にせり出すように枝垂れたソメイヨシノがある。

    ところが、この桜の花芽
    はまだ硬かった。

    昨年は、この桜を標準木として、引地川親水公園の桜を偵察に出かけたものであった。しかし、この桜の開花のない限りでは、この上流にある親水桜並木は、まだこれからであると結論した。

    もう先に行くのを諦めて、さっきまで「怖いと思っていた鵠沼海岸」に行ってみようかと心が動いた。

    川沿いをしばらく走らせていると、カメラを持った人たちが、しきりに川面をのぞき込んでいるのが見えた。それに吸い寄せられるようにして、私も自転車から降りていた。

    そこだけ流れが速くなっていたが、微動だにしない白鷺がいた。

    私もしばらく見ていたが、彫像のように動かぬ白鷺に、鳥の声を真似て口笛を吹いてみた。すると何度目かに、白鷺はゆっくりと振り返った。

    さらに口笛を吹くと、大きく振り向いてはくれたが、それ以後はもう小首を傾げるだけになった。

    小魚でも狙っているのだろうか、やがて水面をじっと凝視して、また動かなくなった。

    しばらく白鷺の立つ瀬をながめていたが、どうしたことであろう。思いはいつしか、65年前の出来事に引き戻されていた。

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    明日は応召で任地に出かけるという父が、家族に黙ったままで、突然私と兄を自転車の前後に乗せて、そっと家を抜け出したのであった。

    その時、兄は7歳で、私は来月の8月に5歳になる夏のことであった。

       ・  ・  ・

    なぜ、そんな昔のことを思い出したのであろう。

    最近、「主人が亡くなった日に、庭に白鷺がいた。」と、テレビ画面で話す人がいた。

    もしかすると、そんな「刷り込み現象」でもあって、水面に静かに佇む白鷺を見て、亡き父とのことを思い出したのかも知れない。

    わずかにしかない父との思い出を、呼び戻すことは嫌いではない。しかし、この時はなぜか、振り払うようにして自転車を漕ぎ出していた。

    このまま2kmも走れば河口に出るが、上村橋で迷い、次の富士見橋では橋の真ん中で自転車をとめて、しばらく川面をのぞき込んでいた。

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    愛犬のチワワは、「どうして、こんなところで自転車をとめるのだ」と不思議そうに見上げている。

    それにしてもあの日の父は、どうして家人にも告げずに、兄と私を自転車に乗せて連れ出したのだろう。

    後々の母との会話では、急にいなくなった父と私たちを心配して、家中が大騒ぎになったという。ところが、どうやら口数の少なかった父は、その日家に戻ってからも、家人に「どこに行った」とも話さなかったようだ。

    その後、私も小学校の1年生となり、遠足で「八ッ沢の発電所」に出かけることがあった。家に帰るなり私は、「あそこには、前に行ったことがある」と大声で報告したのだが、誰一人としてその話を信じてはくれなかった。

    その後も、何度も同じ話を繰り返していたが、ある時私が、「お父さんの自転車に乗せられて・・・」と話した時に、母の表情が変わり、「ああ、そんなことがあった・・・」と遠くを見るような眼差しになっていた。

    応召前日に、父と私と兄が突然いなくなったことがあったが、ようやく母にも、その日の疑問が「あの日に、八ッ沢の発電所に行ったのだ・・・」と理解できたようであった。

    ところが私には、その日の出来事を含めて、父との思い出が線としてではなく、点としてだけ記憶されていたのである。

    今でも不思議なことだが、あれは戦時中のことであったのに、今思い出してモダンなお店で、食べさせてもらったのがカレーライスであったことだ。

    その頃に、和製英語のカレーライスという言葉があったかどうかも知らないが、それに味もどんなであったかも知らない。

    これも後々に聞いたことではあるが、その店はどうやら、父の友人の経営する「坂本屋」ではないかということになった。

    記憶の2つ目は、兄が自転車の後ろの荷台に、そして私がハンドルとサドルの間のフレームに、座布団を巻きつけた上に乗せられていたということである。

    引地川の川面をのぞき込みながら、とりとめもなくそんなことを思い出していたが、
    愛犬あずきに急かされて自転車のペタル踏み込んだ。

    しかし、いくらも走らないうちに、今度は、引地川に覆い被さる桜のつぼみを確かめていた。

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    すると川下の方から、鴨のつがいが近づいて来た。

    鴨の周辺では、小魚がしきりにジャンプしていた。しかし、このつがいの鴨は跳ねる小魚には目もくれず、私の立つ岸辺にと近寄って来る。

    そうか、この鴨は餌付けされているのだろう。


    なぜだろう、ここまで来ても、まだ海に出ることに躊躇いがあった。

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    この真直ぐに伸びるサイクリング道路は、最近までデコボコ道であった。それがきれいに舗装されて、今日は快適に走れるようになった。

    愛犬あずきは、少し疲れたのであろうか、自転車の前籠でうたた寝をはじめた。

    応召前日の父との思い出の3つ目は、蛇のように曲がりくねった急坂道を、私だけが自転車のフレームに巻きつけた座布団に乗せられていたというシーンであった。

    急峻な坂道に、父は喘ぎつつ自転車を押し上げている。それを兄は、不満気な顔をして、それでも懸命に後ろから押している。

    振り返ったわけでもないのに、その兄の表情が見えたはずもないのに、まるで昨日のことのように、その兄の表情までが鮮明に残っているのである。

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    さて、この橋は「太平橋」であったろうか・・・。

    また、サイクリング道路から離れて、橋の中央から川面をのぞいた。

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    このあたりまで下ると、もう引地川には瀬はない。

    淡水と海水が入り混じって、時々ボラの跳ねるのが見える。この先を、大きく左にゆっくり曲がると、やがて引地川が海へと流れ込む。

    少し走らせて、また振り返り、今来た道の写真を撮った。

    それにしても、海への道は一向にはかどらない。やはり、海に出ることが怖いらしい。

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    また、少し走らせて自転車を止めて、しばらくは木漏れ日に遊んだ。

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    ここだけは、少し春の訪れが早いらしい。

    咲きほころびはじめた桜の空が青かったからだろう・・・。また、父のことが思い出された。

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    あの日、曲がりくねった急峻な坂道を上りつめると、八っ沢の発電所の放水池が見えるはずであった。

    ところが、その見えたはずの放水池を、見たという記憶がないのである。

    あの発電所の高台から、放水管とその先に広がるであろう景色を、見たような気もするのだが、それすらも定かではない。

    つい先ほど、咲きはじめた桜を見ていたはずなのに、気づけば134号線に架かる「鵠沼橋」にいた。
     

    過去と現在(いま)とが入り混じって現実感がない。
    突然、青味を帯びた江の島が、眼前に飛び込んできた。

    引地川の河口では、まるで淡水を押し戻すかのように波が砕ける。
    その時、「水が怖い」と思っていたことの謎が解けたような気がした。     

    P1110812.jpg  

    「海が怖かった」のは、あの大地震の津波が怖かったからだけではない。
    いくつもの渦を巻いて、強引に地底に引き込もうとするかのような、あの青い水の勢いが怖かったのであった。

    あの八っ沢の発電所の放水路に吐き出される、青く澄んでいるのに、地獄の底へ引き込むような、その渦巻く水の勢いであったのだ。  

    海が好きで、藤沢を終の住処に定めたはずであった。
    海が怖かったのは、あの大津波のためばかりでもなかった。
    海が怖いというよりも、どこか懐かしさが感じられていた。
    詩人のいう、「母なる海への憧憬」でもなかったようだ。
    父が連れ出したあの八ッ沢の発電所の「水」だったのだ。

    長い間、私にとっての海は、どこかに恐ろしさがあるのに、なぜか遠い懐かしさが混在していたのであった。

    3度目の応召で、中部太平洋方面で戦死した父は、2度と家族の元に帰ることはなかった。もう家には帰れないことが分かっていたから、父は任地に赴く前の日に、黙って私と兄を連れ出したのであった。

    どんな思いで若かった父が、母の腹にいる3番目の子と私たち家族を残して、最後の戦地に赴いたのであろう。

    その父は、ついに任地を家族に伝えることはなかったという。

    戦争は、家族に行く先さえも告げられないほどに逼迫していたのである。

       ・  ・  ・

    引地川の河口から、ゴマ粒のように見える烏帽子岩と愛犬のあずきを撮った。

    「もう家に帰ろうよ・・・」と愛犬の目が語る。  

                 P1110815.jpg







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