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紅葉狩り4 【京都青蓮院】 [紅葉狩り]

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  紅葉狩り4 (京都青蓮院)

         (註) この記事は、平成19年11月15日に京都旅行をした時のものです。

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  •  予定していた、光悦寺・曼殊院・圓光寺の3ヶ寺を拝観することができました。

     朝9時30分に新横浜駅を出発して、新幹線の中で昼食をすませて京都駅に着き、色づきはじめた紅葉を訪ねて3ヶ寺を巡りました。
     「久しぶりの旅行で少し疲れた。まだ、少しはやいけれどもホテルでゆっくりしょうか」と妻を気遣ってみます。
     すると運転手さんが、「お客さんまだ4時ですよ。もう一ヶ所ぐらいは拝観できますよ」と誘ってくださるのです。
     
     最近では、若い頃のように観光旅行をしたとしても、終日名所旧跡を歩き回るということがなくなりました。
     あの頃は、なんでも貪欲に見てやろうと足を棒にして歩き回り、クタクタになって倒れこむようにして旅館にたどりついたものです。これでは日ごろの疲れを癒すどころか、かえってくたびれるために旅に出るようなものでした。

     この頃になってようやく、前もって調べておいた2,3ヵ所の名所旧跡を、ゆっくり観光できるようになりました。
     ですから、せっかくの運転手さんの親切にも、「少し疲れましたから、ホテルに直行してください」と素っ気なく言ってしまったのです。

     もう10数年も前のことになりますが、初めて妻と京都を訪れた時に来たことのある、詩仙堂あたりをタクシーは右折しました。その道を突き当たって白川通を越え、さらに西に向かって走ります。
     道幅は広くなって家並みも変わりはじめたころに東大路通となります。そこは加茂川と高野川の合流する地点である加茂大橋なのです。
     
     あれは6月の蒸し暑い日のことでした。久しぶりに娘と京都の街をぶらついていた2日目のことでした。その日の午前中は京都御所を見学し、午後は、糺の森の奥に鎮座する下鴨神社にお参りしました。
     その帰りの参道で、偶然娘の見つけた玉虫のみごとな美しさについて話そうとしたのですが、ぼんやり窓の外をながめていた妻には聞こえていないらしいのです。

     タクシーは、加茂大橋の手前で左折して川端通を南に下ります。やがて遠くに御池大橋が見えてきましたが、あいかわらず運転手さんは、この辺りの観光名所や御所について説明をつづけています。

     その話が途切れたと思った瞬間、「この橋を右に曲がりますと、ホテルオークラです」と確認するようにいうのです。「ありがとうございます。今日は仕事を早めに切り上げてお家に帰ってください」と私は労いの言葉をかけます。

     すると、「いや、お客さんをお送りした後にもまだ仕事は残っているのです。会社に戻ると他の仕事がちゃんと待っているんですよ。それに私の家は彦根にあるんです。無理すれば通勤できないこともないのですが、会社が借りているアパートに単身赴任なんです。
     ですから実家から通勤しているわけではないのです」と語るのです。
     
     その話を聞きながら、我ながら余計なことを言ってしまったものだと後悔しました。しかし、そのこととは別に、私の中で何かが少しずつ変化しているのを感じていまいた。

     その証拠に、「運転手さん、青蓮院はこの近くですか・・・」と聞かなくてもよいことを口に出してしまったのです。圓光寺界隈で道を間違えたからでもないだろう。契約した時間よりも早く帰ることで会社に帰って問題になるわけでもないだろう。はやく帰っても彦根に帰れるわけでもなく、単身赴任が淋しいからでもないだろう。
     いずれにしても運転手さんは、圓光寺を出たあたりから熱心に勧めてくれていたのが青蓮院だったのです。

     私の変化に気づいた妻は、「そうね」と一言だけいうのです。
     すると、私がまだ言い終わらないうちに運転手さんは、「では、青蓮院に参ります」と急に元気になって御池大橋前を直進して、次の三条大橋をゆっくり左折したのです。
     
     青蓮院には、前に来たことがあると思い込んでいました。しかし、駐車場から降りて親鸞聖人のお手植えと伝えられる門前の大クスノキ(境内の西側に、京都市天然記念物の5本のクスノキの巨木がある)を見上げたときに、それが間違いであったことに気づきました。
     
     かつて職場の仲間たちと隣の知恩院を詣でた帰りに、この門前を通りかかりました。
     だが、すでにあたりは夕暮れていました。しかたなく私たちは、明日にもう一度訪れようと思っていたのです。しかし、次の日には予定変更があって、結局訪れることができなかったというお寺だったのです。 
     
     

     青蓮院・三千院・妙法院は、天台宗の三門跡寺院だそうです。
     この青蓮院は、もともとは比叡山の東塔の南谷にあった青蓮坊が、平安時代の末期になって門跡寺院となって山下(当初は三条白川に移ったが、河川の氾濫に遭い、鎌倉時代になって現在地に移転したという)に移ったのが、その起源だそうです。

     珍しいことに、この青蓮院には山号がありません。この寺の起源から推察してみると、ここも比叡山の一坊であるから、ことさらに山号を必要としなかったのかも知れません。

     さっき拝観した「曼殊院」も門跡寺院でありましたが、ここも皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院であり、多くの皇族が門主を務められている宮門跡寺院としての格式は高いとのことです。
     江戸時代の末期に皇居が焼失したおりには、後桜町上皇の仮仙洞となったこともあって粟田御所ともいわれているそうです。

     火災に遭って古い建物はないとのことですが、本堂(堂内の厨子には青蓮院の本尊の熾盛光如来の曼荼羅を安置)、宸殿(宸とは皇帝の意で天皇の位牌を祀る堂)、小御所(天皇の仮御所として使用)、書院の華頂殿、叢華殿、茶席の好文亭(後桜町上皇が学問所として使用)などがあり、それぞれの建物は、渡り廊下で巡ることのできるような構造となっています。

     本堂の東裏には、国宝の青不動画像の複製(本物は奈良国立博物館に寄託)が安置されていますが、これは 園城寺の黄不動、高野山明王院の赤不動とともに三不動といわれているそうです。
     しかし、青不動とは通称でありまして、正式名称は「不動明王ニ童子像」というのだそうです。

     これは余談ですが、東京にも目黒不動・目白不動・目赤不動・目青不動・目黄不動の5種類が6ヵ所に不動尊として祀られたと伝えられていますが、今では地名として目黒と目白の2ヶ所が残されているだけです。



     庭園は、室町時代の相阿弥作と伝える築山泉水庭と、江戸時代の小堀遠州作と伝える霧島の庭などがあります。

     「花は霧島」と聞いたことがありますが、この京都の門跡寺院に咲く霧島躑躅が想像できないのです。
     遠州の配した霧島躑躅が、この庭園以外にもあるかどうか(大心院・曼殊院も、霧島躑躅の名園とのこと)は知りませんが、ぜひとも一度満開の時にでも、この庭を拝観したいものです。



     どんなに見事な庭園であっても、1日に4ヶ所を巡るに耐えるようには造られていません。
     いや庭の何たるかもわかっていない素人に何がわかると言われれば一言もないのですが、だからと言って名園の鑑賞にはゆったりした時間と、それなりの心の余裕が必要であることまでを否定しないでください。

     その食傷気味であった庭園を見終えて、小御所の渡り廊下を歩いていた時に「一文字手水鉢」の前で足をとめさせられたのです。何のことはない、大きな一つ岩に3mほどの穴を穿っただけの作品です。
     しかし、傍らの豊臣秀吉寄進の文字がなかったととしても、やはり足をとめていたことでしょう。

      素人目からは、そんなに古いものとは思われません。もし最近の作品であるといわれても否定することはできないでしょう。
     自然石に大胆に人の手が加えられたことによって、そこには岩が本来持っていた猛々しさが消えてさわやかな存在感が生まれていたのです。なにがなんだかわからなくとも、そこには人の足を留めるだけの力強さがあったのです。

     日ごろから偏屈を自称している私は、この手水鉢を前にした時に、この寺の由緒や国宝・重要文化財よりも、この一文字の手水鉢が気に入っていたのです。

     それは製作者の物づくりの素朴な意図が、こんな大胆な手水鉢として形になっていたからです。あの下鴨神社にもあった舟形の磐座石(御手洗)を思い出していました。
     糾の森の樹齢600年の欅によって作られた樋から杜の清水が注がれていました。このこともふくめて古い歴史のある京都であるからこそ、はじめて斬新な作品が生み出される土壌が培われたのだろうと感じたからです。
     
     先に行った妻が戻って来て、どうしたのという表情をしています。



     いつものことでしたが、理屈にもならない屁理屈を捏ねまわしながらも、私の心の奥の方では、時間にも人にも邪魔されずに、この名園と一文字の手水鉢はもう一度ながめてみたいと思っていたのです。 

     あの本堂に終日座して、天台座主を4度務めたという、関白藤原忠通の子でもあったという、この寺の門主慈円の「愚管抄」についても考えてみたいものです。
     また、名筆家と知られている伏見天皇第6皇子の尊圓法親王という方は、青蓮院の17代目の門主であったそうです。
     その書風を青蓮院流といったそうですが、それがやがて江戸時代になり、和様書風の御家流の源流ととして世に広く普及したものなのだそうです。

     青蓮院の由緒書きをざっと見ただけでも、霧島躑躅の咲く頃にふたたび訪れたいと思っていました。その時には、あの一文字の手水鉢をじっくり見てみたいのです。

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     タクシーが京都ホテルオークラに到着したのは、約束していた5時30分でした。

     4ヵ寺を5時間あまりでまわっていただいた親切な運転手さんのことを話題にしながら、私たちの話はいつの間にか家に残してきた愛犬チワワの話題になっていました。妻の希望で夕食は、地下1階にある中華料理にしました。
     ところが店には客がまばらにしか入っていなかったのです。
     わたしの隣の席では、軍隊時代の話題を懐かしそうに語っておられましたから、おそらく80歳をこえておられるであろう男性の2人ずれが楽しげに紹興酒を酌み交わしていました。

     のんびり紅葉を観たからでしょうか、妻の話をゆっくり聞くことができたからでしょうか、たかが1泊2日の京都であったとしても、久しぶりに日常から飛び出すことができたからでしょうか、いずれにしても旅に出たご利益がありました。
     普段から酒を嗜まない妻が何年かぶりで、それも1回だけ酌をしてくれたからでしょうか、今宵は紹興酒が全身に心地よくまわりはじめていました。
     でもやがて話題は、また愛犬チワワのことになっていました。

     何階であったか忘れましたが、朝食はホテルの上層階にあるレストランでのバイキングでした。
     驚いたことに時間前だというのに、レストランの入口前は人でごった返していたのです。すると昨晩、あの中華料理店がガラガラであったのは、どういうことだったのかと不思議だったのです。

     ここで賑やかに待っている人たちは、ほとんどが和食かフランス料理だったのだろうか、それとも外で食事をしてからホテルに戻ったのだろうかと、いつもの疑問癖が頭から離れなくなっていたのです。
     
     妻が、「お父さん、皆さんがお並びですよ」と少し険しい顔でいうのです。


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