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初台局 【二話】 秀忠の御守 [出会いびとの記]

  • 初 台 局 (ニ話) 秀忠の御守

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  •  正春寺の寺宝に、「梵字石」というものがあるそうです。

     残念ですが、私はまだ拝見しておりません。
     それにしても、梵字石とはなんでしょう。そこでまた、「正春寺のパンフレット」を開いてみますと、2代将軍徳川秀忠公のお守りであると書いてあります。

     では、どんな由来のあるお守りかといいますと、まだ秀忠が、浜松で長丸君と呼ばれていた時のことでした。
     乳母でありました初台局が、浜松城下の諏訪大明神に長丸君の成長を祈願しましたところ、その満願の日に社前で不思議な石を拾ったのだそうです。
     
     その石をよくよく見ますと、サンスクリット(梵字)で6字が書かれてあり、裏にも梵字と花押が書かれてあったというのです。そこで初台局は、その石を秀忠の生母の宝台院に献上しました。
     その不思議な話を聞いた家康は大いに喜び、さっそく天海大僧正に加持祈祷を行わせたそうです。天海大僧正は、この石に「無量寿石」と命名した上で、長丸君のお守り袋に納めたと伝えられています。

             
                    (正春寺発行のパンフレットより、以下同じ)

     ところで、初台局について、いろいろな資料に当たってみますと、なるほどと思うことに出会うことがあるのです。
     次に引用します文章は、パソコンで調べているうちに偶然見つけました「初台の駅名の由来」と題する内容の記事ですが、その一部を抜粋させていただきました。

     「初代の駅名である『改正橋』は、線路付近の玉川上水に架かっていた橋に因んでいる。現在の駅名である『初台』は、改名当時の駅南側の地域の地名『渋谷区代々木初台町』から来ている。

     地名の由来は、代々木村に太田道灌が作った8ヶ所の砦のうち、一の砦(狼煙台)のあった場所から初台と呼ばれる様になったといわれる。
     この地に江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母であった土井昌勝の妻が徳川家康関東転封直後の1591年(天正19年)に、この地に200石を拝領した事から、『初台局』と名乗る様になった。初台局の娘で、3代将軍徳川家光の乳母の梅園局が、母の菩提寺として『正春寺』を現在の渋谷区代々木3丁目、当時の代々木村山谷(代々木村初台ではない)に創建した。」
     
     少し長くなりましたが、ここには「太田道灌の一の砦(狼煙台)のあった場所から、初台と呼ばれる様になった」、「秀忠の乳母であった土井昌勝の妻が、この地に200石を拝領した事から、初台局と名乗る様になった」と書かれています。

     これでは、「鶏が先か卵が先か」という議論に似てきましたが、もしそうであれば、私が「一話」で書きました内容は、根底から覆されるという大事な資料の一つとして、ここに引用させていただきました。 


     (百年前の基礎を解体、高上げ工事による耐震構造の基礎を完成し、本堂内部も全面的に改修した)

     もう一つ、「ところで」を追加しますと、「秀忠の乳母は初台局だけ」だと思っていましたが、次の資料が出て来たのです。
     これもパソコンで調べているうちに偶然見つけたものですが、やはり、その一部を抜粋して引用させていただきます。

     「徳川家康の三男として、遠江・浜松に生まれ、乳母・大姥局によって養育される。母は側室の西郷局、実家の西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河の有力な国人であった。」
     
     ここで問題になるのは、「乳母・大姥局によって養育される」と書いてある部分なのです。
     とすると、秀忠には2人以上の乳母がいたことになります。いろんな事情から、そんなこともままあるだろうとは思いますが、初台局の夫である土井昌勝は、幕府というよりも徳川家の重鎮として活躍・優遇されていた人物でありますから、せめて初台局の名前を、併記するぐらいの配慮はあってもよいのではないかと思ったのです。

     本当は、これからが興味の対象となるべきところですが、素人の私ではどうにもなりません。
     でも素人は素人なりに、誰にも束縛されないで、自由に想像だけは無限に広がって楽しめるのです。もし文章を書ける能力が備わっていたら、その想像をもっともっと拡大していって小説にでもしたいところですが、ただ思うだけです。

     でも挫けずに、「梵字石」のお話に戻してみますと、初台局が、梵字石を拾った場所は、浜松の諏訪大明神であると書きましたが、もう少し詳しく述べますと、その神社の境内の小高くなった芝山で拾ったことになっているのです。
     ですから、やがて成長した秀忠公が、この吉例にちなんで、初台局の娘梅園局の夫である木村吉次の姓を改め、柴山という苗字を与えられたというのです。
     
     その柴山家の先代ご住職の奥様手製の「イチジク茶」をいただきながら、この寺の縁起をお聞きしました。
     そのイチジク茶とは、ただ葉っぱを、乾燥・加工させただけのお茶ではありません。イチジクのよく熟れた果実(果実と書いたのは誤りでした。
     なぜならイチジクは、「無花果」と表記するのです)を、そのまま乾燥したものを茶碗に入れて、そこに熱湯を注ぐという珍しいお茶なのです。ですから、お茶というよりも、温かなデザートをいただくということになるのです。



     

     この由緒ある「正春寺縁起」を調べていますと、まだまだ多くの興味や疑問がわいてきて、私を惹きつけて放さないのです。
     初台局や、その夫の土井昌勝の生い立ちと重用、娘で家光の乳母となった梅園局、その息子である秀教坊正入と徳川家の人々と興味はつきないのです。
     
     しかし、前述しましたように、資料の違いが次々と出てきますと、浅学菲才の身ではどうにもなりません。
     そこで私は、「生兵法は大怪我のもと」と、気ままな想像を楽しむだけ楽しんで、ここらあたりで、初台局にかかわるお話しをおしまいにして、次の話題へと逃げ込もうと考えています。


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