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日向薬師の坂道 [つれづれの記]

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  日向薬師の坂道

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  •  日向薬師の魅力は、杉木立の坂道にあります。

     10年ほども前のことになります。
     元の職場仲間数人と、たまにはゆっくり飲んで湯にでも浸かろうかということになりまして、この近くの七沢温泉に一泊しました。

     翌朝はせっかくここまで来たのだからと、皆さんを日向薬師にご案内しました。
     大きな木々に囲まれた静かな境内は、すでに掃き清められていましたが、まだお参りの人たちの姿はみえません。

     最近ではすっかり珍しくなってしまった茅葺屋根の本堂前に立ちます。 ところが本堂前に設えてある灯明はすでに点されてあり、線香の煙も立ち上っていたのです。
     さては誰もいないと思っていた境内に、もうお参りをすませた人があったらしい。

     本堂の土間に入ると、久しぶりに帰った田舎の実家のような懐かしさがあるのです。

     参拝をすませて本堂から出ますと、箒を持ったご住職がひょっこりとあらわれました。

     前々から顔見知りであったご住職でしたからなにかブツブツいいながらも、早朝の休館日であるのにもかかわらず、鍵を取りに戻って特別に宝物館を開けてくださったのです。
     
     友人たちは、こんな小さな山寺でも宝物館があるのかといぶかしんでいます。

     ところがこじんまりとした館内には、重要文化財指定の平安時代の作と伝える本尊薬師如来と、脇士の日光月光菩薩、鎌倉期の薬師・阿弥陀・日光・月光・四天王・十二神将、そして厨子・梵鐘にとどまらず、茅葺の本堂までが文化財の指定になっていたことに驚いています。

     さらに頼朝・行基・道灌・弁慶などのゆかりの品々に、もう時代の中に忘れ去られてしまったような山寺の歴史(開創は行基菩薩、霊亀二年・西暦716年)に思いを馳せているようでした。

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     でも私は、この寺の魅力は坂道の参道にあると思っているのです。

     日向薬師を最後に訪れたのは、今から5年ほども前のことになります。
     私が藤沢に転居する前は相模原市に住んでいましたから、妻とのドライブコースの一つとしてよくお参りしていました。妻は同じ寺に、もう一度お参りするような性格の人ではありませんが、この寺への参詣だけは断られたことがないのです。

     けれども私が免許証を50歳で取得したものですから、それ以後は本堂裏の駐車場からそのまま境内に入るようになりましたので、正面の参道を上って来ることはほとんどなくなりました。
     ですから今日(10月25日)この坂道を上るのは、それこそ10数年ぶりのことになるのかも知れません。
     
     バス停から少し歩いて、大きな農家の入口ほどの脇道を入ります。その道路脇には日向薬師と彫り込んだ石柱と、古びた三体のお地蔵さんが迎えてくれます。
     その中の一体は胸の辺りから上部が欠けていまして、そのままではあまりに惨めと思ったのか、大きな身体には不釣合いなほどの小さなお顔が乗っています。

     そこからはもうゆるやかな登り道がつづき、こじんまりとした山々の懐にいだかれるようにして、石のきざはしと小さな山門が見えます。

      数えたことはありませんが、さてこの急な石段は何段あるのだろう。いっきに上りきったところには、緑の木々に埋もれるようにして山門が建っています。

     この小さな寺の小さな山門には、少し不釣合いとみえる大きな仁王が睨みをきかせています。
     よくよく見ると、その仁王の掌には赤子のようなふっくらした短い指がついているのです。今にも襲いかかろうとする怒りの形相で目をむいている仁王の猛々しさと容貌に比して、なんと可愛らしきこの赤子のごとき愛らしき5本の指よ。

     一息ついてふたたび上りはじめた石段は、屏風のように立ちはだかっています。

     この石段の石は大きいのもあれば小さいのもあります。おそらく大昔からの信者たちが、参詣の人々の困難を少しでもやわらげようと一つ一つ川原から担ぎ上げたものなのでしょう。

     その不揃いの自然石が、きちんと並んでないのがいいのです。石段の高低差もバラバラなのがいいのです。
     さらに、その石段の脇には崖を削り取ったような岩道がついています。石段を上るのが辛い人にとっては、千数百年にわたる信者たちの足で踏みつけられ、自然にできあがったダラダラ上りの粗末なこの階段に助けられたこともあったのでしょう。

     いずれにしても、ここにはできるだけ人の手が加えられていないのがいいのです。

     ここまで上ってきますともうあたりは深山に迷い込んだような、なにかゾクッとするような霊気までを感じます。時おり足音に驚いた鳥がバタバタと飛び立ちます。

     この急坂は仲間や家族と喘ぎあえぎ上るのもよいのですが、私はひとりでブツブツつぶやきながら上るのが好きなのです。

     大江公資の妻相模が、
      さして来し日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやは
    と詠んでいますが、深い信心のご利益がかなって山の緑もことさらに目に沁みたことでしょう。

     わずか数100mほどの短い坂道ではありますが、この坂道には波瀾万丈の人生があるのです。

     このきつい急坂を上り詰めると、平らかな道が左に折れてやがてまたゆるく右に曲がってつづきます。ここはおそらく開創当時の昔から、無病息災を願って訪れた善男善女がようやく一息ついたところだったのかも知れません。

     だから毎朝この寺の住職は、ここまで降りて来て箒の掃き跡を残しているのでしょう。

     ここを曲がるともう100m先に、最後の石のきざはしと木々の間に本堂がのぞいています。
     ここまで上ってきた人々を、黙して癒すかにみえる空間が計算してできたとも思われないが、ここでは人と自然が一体となった境地のあることだけは事実なのです。
     
     だいぶ前のことでしたが、東京近郊の古寺を訪ねるというようなテレビ番組がありました。
     そのころの私たちはことあるごとに訪れていた日向薬師でしたから、秋野暢子とかいう女優さんがこの本堂の階段を降りてくる場面を今でも鮮明に覚えているのです。
     
     その最後の石段に足を踏みかけたのですが、もう一段上がることに躊躇する自分のいることに気づきました。
     やがて私は迷いを振り切って踵を返し、いま来た道を引き返しました。

     日向薬師に詣でる魅力は、ここまでの急な坂道にあるからです。

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     山門から下ると道路脇の雑草の中に、この季節にはもう似つかわしくない濃い紫のアザミが咲いていました。

     まるで「徒然草」の仁和寺の法師のごとき寺参りではありましたが、失礼のないようにこのお寺を少しだけご紹介しておきます。

     この寺は、神奈川県伊勢原市日向にあるところから通称日向薬師と呼ばれています。行基菩薩の開創した当時は霊山寺と呼ばれていましたが、後には現在の「宝城坊」と称されるようになりました。

     開山当時は元正天皇の勅願時となり、後一条・近衛・光明・後円融天皇など、皇室とのかかわりの深いお寺だったようです。
     鎌倉期には頼朝・政子・実朝室の参詣や援助もあり、足利氏や徳川家からの寄進もあったという古刹です。

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