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「老いてようやく知り得たこと」 


     「老いてようやく知り得たこと」  
           
                         
                                 平成30
年6月4(月)
                               
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  • 6月大歌舞伎のチラシを見ながら妻が「この菊之助の『文屋』は中学の時に踊ったので観てみたい」と言った。やれやれ「今月も妻と歌舞伎見物か」と思いながら、数日して奈良旅行へと出かけた。その奈良旅行から帰って数日すると、これまで病気とか痛みにまったく縁のなかった妻が「背中全体に痛みが走っているの」と言い出した。


    その様子をみながら、もし妻が歌舞伎に行けないのなら誰かをお誘いしようかと迷っていた。しかし、よほど「文屋」が観たかったのか、妻は「大丈夫よ。わたし行けますよ」言い切った。いよいよ前日になって、これは無理だろうと思って「妻の代わりに歌舞伎に付き合ってください」とお声をかけさせてもらった方に「ごめんなさい」。そのぼくの電話を聞いていた妻がガンとして「行きます」というので、駅までゆっくり歩いてグリーン車に乗り込んだ。

    幕開けの「妹背山婦女庭訓」(三笠山御殿)が始まったが、隣の妻が足を延ばしたり縮めたりするのが気になって芝居に集中できずにいた。30分の幕間で弁当を食べ始めたが、食べきれずに2人とも半分残した。流石に菊之助丈の「文屋」は、好きな舞踊だけに舞台に見入っていた。おそらく妻は、60年以上も前の自分の踊っていた姿と重ねあわせてでもいたのだろうか。

    ところが15分の幕間の後の河竹黙阿弥作「酔菩提悟道野晒」(野晒悟助)になると、今度は体を右に左にと動かして苦しそうにしている。思わずぼくは妻に「もう帰ろうか」と何度も聞くと、ぼくを気遣ってか何度も「大丈夫よ」と言った。それでも幕が下りるたびに「まだこの芝居はつづくのかしら」と聞いて来た。彼女の辛さが察しられたが、それ以上強引に「帰る」と言い出せない自分がいた。

    椅子席では前に大きな人がいると「わたしには舞台が見えない」と妻が言っていた。だが今日は桟敷だから目の前を遮るものはなかった。しかし、掘り炬燵式で足はテーブルの下に入れられるものの、座敷に座椅子に座布団では妻の症状には辛そうに見えた。先ほどから隣のご夫人は座椅子を後ろまで引いてずっと居眠りしたままであった。でも不思議なことに、時々目をパッチリ開いて贔屓の役者に大拍手をしているのである。また隣の妻は辛そうに体を左右にくねらせていた。

    芝居が跳ねても、どこにも寄らず買い物もせずにまた新橋駅からグリーン車に乗った。ぼくは普段は、ほとんど一般車両であってグリーン車は贅沢だと考えていた。ところが妻と出かけるようになってからは、専らグリーン車を利用するようになった。これも老いて自分の苦痛を知ってからは「有難い」と思うようになったからである。藤沢には5時過ぎに着いたが、もう夕餉の支度は無理だろうとデパートであれこれと夕食を買い込んだ。家に戻ると妻は痛みに耐えられずに横になった。ぼくは慣れない風呂を入れて、デパートで買ってきた夕食をテーブルに並べて茶を淹れた。

    男とはだらしのないものである。日々妻のしていることに感謝もせずに上げ膳据え膳の生活をしていたのだった。結婚して53年風邪で寝込んだくらいで病気ひとつしたことのない妻に今日だけは感謝していた。

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U3

 単身赴任をすると配偶者のありがたみも自分の自立心も良く分かります。自分で出来る人、誰かに頼らないと生きていけない人、相手を慮れる人とそうでない人。長い年月を一緒に暮らすということはそういう事を分かり合う事なのかも知れません。
by U3 (2018-06-12 12:43) 

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